「人が見て自分で正しいとする道があり、その終わりはついに
死にいたる道となるものがある。」箴言16:25

「救われる?どうしてわたしが救われる必要があるのだろう。何から救われるというのか。今の自分のままでまったく問題ないではないか。と言いながら、内心ではときどき、良心の呵責を感じている。……そして何だかんだと言っても、ときどき自分の将来を心配している。……もし本当に裁きの日があるとしたら……そうだ、正直なところ、わたしはこれらのこと、家族や友人にそう簡単に本気で話せないことについて、内心悩まされることから救われたいものだ」。
もしこれがあなたの気持ちであれば、それは神があなたの関心を目覚めさせ、心を引きよせておられる証拠です。すべての人のうちに、この世ではどうしても提供することのできない何ものかに対する心の切望があります。社会的、物質的、物欲的な娯楽は、一時の満足を提供するにすぎません。ちょうど、しぼんでしまう花のようです。しかし、永遠の事柄は、わたしたちの魂の最大の切望を完全に満たしてくれます。ですから今日、あなたがこの良心の声、すなわち神のみ声を聞いておられるなら、それを無視しないで下さい。
イエス・キリストのうちに見出される信仰は、わたしたちが神のために何をしようとしているかではなく、むしろ、神がわたしたちのために何をして下さったかに基づいています。それは人がむなしく天に向かって到達しようとするイメージではありません。
人は、なぜこんなにも弱いのでしょうか?罪、すなわち神の律法の違反以外の何ものでもないこの罪が、体と精神を非常に弱め、わたしたちは道徳的な不具者となってしまいました。この律法とは、道徳的律法である十戒です。それは心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさいと教えています。しかし、なすべき正しいことがわかっていたとしても、なかなかその通りにできないと思いませんか?今までにそのようにお感じになったことはありませんか?
福音、すなわち良い知らせは、イエス・キリストをとおして、あなたが過去に犯したすべての過ちを完全に許していただける、ということです。あなたを許すのは、単なる人間ではありません。宇宙の創造主があなたを許されるのです。これ以上高い権威者はいません!このお方は一切の拒否権を覆されます。だれ一人として、それに疑問をさしはさんだり、異議を申し立てたりすることはできません。イエスが、カルバリーの十字架にかかることにより、わたしたちの罪や過ちを償い、刑罰を引き受けて下さったために、わたしたちは有罪宣告から自由にされるのです。このお方を受け入れるとき、わたしたちは罪に対してこのお方と共に死に、十字架につけられます。それは、わたしたちがまたこのお方と共に新しい命へよみがえるためです。こうして、このお方はあなたを、悪い考えや悪習慣に打ち勝つ者とし、キリストのうちにあなたを勝利者として下さるのです。

しかし、実際、「救われる」というのは、ある人々が思うように、一度救われたら、つねに救われているという意味で
はありません。もしだれかが奇跡的に自動車事故や飛行機の墜落から救われたとしても、必ずしもその人が永遠に救われたというわけではありません。結局のところ、似たような危機はまたいつでも起こる可能性があります。しかし、キリストのうちにとどまるとき、このお方はわたしたちを安全に守ってくださると約束しておられます。そして、わたしたちがこのお方のうちにとどまり続けているなら、わたしたちは将来、このお方が再び来られる時に、永遠に救われるのです。本当に、良い知らせではありませんか?そしてこれこそ、唯一の道、唯一実現する道なのです。