青銅で造られた洗盤には祭司が使うための水が入っていました(出エジプト記30:18-21)。別の言葉でいえば、祭司が聖所で神に仕えるときに自分を洗うことのできる唯一の場所でした。しかし、今日、神は私たちが特別な意味でご自分にとっての祭司となるように望んでおられます。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」(ペテロ第一2:9)。私たちが暗やみ、すなわち罪の生活から主に仕えるようにと召し出されたとき、主は私たちが洗うことを望んでおられます。そのために、もっとも重要なものは水です。

水とは何でしょうか。水は、それを飲む者に命を与えます。またそれには人の体を元気づける成分があります。水には、それを内服するときばかりでなく、体にあびるときにも驚くべき治癒力があります。水を体に取り入れると、すべての組織を洗って、私たちの体から不純物を取り除きます。それと同じように、その水が私たちに霊的命を与えます。そしてこれらの事実がすべての者に、キリストの血と水の驚くべき清めの力について語っています。私たちはどこでこの水を見出すことができるでしょうか?そうです!私たちは洗盤に行く必要があります。この洗盤は何をあらわすのでしょうか?これはバプテスマをあらわしています。

バプテスマのことについて考えてみましょう。「バプテスマ」という言葉は、ギリシャ語で中に突っ込む、浸す、沈めるという意味の言葉です。主婦は、お皿を洗うために水の中に浸し(バプテスマ)ます。そして、「キリストに合うバプテスマを受ける」ということは、私たちがそのかたにあってバプテスマを受けるときにそのかたと持つべき関係を指し示しています。私たちは、そのかたの命の中にのみこまれ、見えなくならねばなりません。それからは、ただキリストだけが見られるようになるのです。それは、「もはやわたしではなく、キリストなので」(ガラテヤ2:20参照)あり、なぜなら「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られた」からです(ローマ6:4)。私たちは、キリストの死によって神と和解し、「彼のいのちによって救われ」るのです(ローマ5:10)。ですから、キリストに合うバプテスマというのは、単に形式だけでなく、事実、私たちを救うのです。「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」(ガラテヤ3:27)。「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」(ローマ6:3)。「人は、もう一度再生の洗いによって神の恩寵を受けるようになった。この洗いはキリストの死にあずかるように、水の中へ埋葬されることであり、神の律法の違反を悔い改める者はすべて、聖霊の働きをとおして、精錬と清めを受けることをあらわしている。バプテスマは、聖霊によって新しくされることによる真の改心をあらわしているのである。」(信仰によって私は生きる143)。キリストはご自分の死によって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。しかし、私たちはそのかたとともに死ななくてはならないのです。バプテスマは「彼の死の様に等しく」なることです。そのとき、私たちはよみがえって「新しい命のうちに」、すなわちキリストの命のうちに歩むのです(ガラテヤ2:20参照)。キリストを着ることによって、私たちはそのかたと一つになります。私たちは、完全にそのかたと一体となるのです。私たち自身は、そのかたのうちになくなってしまいます。改心した人についてしばしば、「彼はすっかり変わってしまってわからないほどですよ。以前の彼とは違います」と言われます。そうです、以前の彼ではないのです。神はその人を「別の人」に変えられたのです。ですから、キリストと一つになることによって、彼はキリストがもっておられるものに関して何でも権利があります。すなわちキリストが座しておられる「天国」への権利があるのです。彼は、罪の牢獄の家から、神の住まわれるところにまで引き上げられます。彼がバプテスマを受けたのは、単に目に見える水のなかではなく、「キリストにあって」、すなわちそのかたの命のうちにバプテスマを受けたのです。

バプテスマは「体の汚れを除くことではなく」(ペテロ第一3:21)、すなわち体の外面を清めることではなく、魂と良心を汚れから清めることです。「罪と汚れとを清める一つの泉が」あり(ゼカリヤ13:1)、そして、この泉はキリストの血、すなわちキリストの命をさしています。この命は十字架上でキリストの脇から流れ出たのと同じように、ほふられた小羊が立っておられる(黙示録5:6)神のみ座から川となって流れ出ています。「永遠の霊」によって、そのかたがご自身を神にささげられたとき、そのかたの脇から血と水が流れ出たのでした(ヨハネ19:34)。私たちは、「罪と汚れとを清める大いなる泉であらわれていた。(そのときにのみ)、キリストは(私たち)をご自分のものとして認められる…私たちは、キリストのきよめの恩恵を求めて、みもとに行かねばならない」(各時代の希望 下巻122,124)。キリストは「教会を愛してそのためにご自身をささげられた。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会を清めて聖なるものとするためであ」った(エペソ5:25,26)。文字どおり、「み言葉に浴する」のです。水の中に、天父と御子と聖霊の名によって葬られることによって、良心的な信者は命の水、すなわちすべての罪から清めるキリストの血を受け入れることを表明するのです。そしてその人は、それ以降、神の口から出るひとつひとつのみ言葉によって生きるために自分自身をささげます。そのときから、彼は見えなくなり、ただキリストの命だけが、彼の死すべき肉体のうちに現れるのです。

キリストを着ることによって、私たちは「真の義と聖とを備えた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ4:24)。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント第二5:17)。こうして、私たちは「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」ときにのみ、「全き人」となるのです(エペソ4:13)。しかし、「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:29)。

洗盤とその位置

神は、モーセに洗盤を造って、それを聖所の入口のすぐ前に置くよう命じられました。「あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間において、その中に水をいれ」なさい(出エジプト記30:18)。「祭壇と幕屋の戸口との間には、イスラエルの女たちが心からささげた鏡によって造られた、同じく青銅の洗盤があった。」(人類のあけぼの 上巻408)

 

なぜこの洗盤が必要だったのか

「アロンとその子たちはそれで手と足とを洗わなければならない。彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務めをなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」(出エジプト記30:19-21)。「会見の幕屋にはいるとき、また祭壇に近づくとき、そこで洗った。主がモーセに命じられたとおりである」(出エジプト記40:32)。「祭司たちは聖所に入っていくときや、主に燔祭をささげるために祭壇に近づいたりするときには、いつもこの洗盤で手と足を洗わなければならなかった。」(人類のあけぼの 上巻408)。「聖所は神の栄光によって神聖なものとされた。そしてこの理由のために、祭司たちは、決して神のご臨在によってきよめられた場所に靴をはいて入ることはなかった。彼らの靴に、聖所の神聖を汚すほこりがわずかでもついているかもしれなかった。そのために祭司たちは、聖所に入る前に自分たちの靴を庭で脱いでくるよう要求された。庭では幕屋の入り口に横に青銅の洗盤があり、祭司たちは幕屋に入る前にその中で自分たちの手や足を洗った。すべての不純物が取り除かれ、『死なないように』するためである。すべて聖所の働きをする者は、神の栄光が表されるところに入る前に特別な準備をするように神に要求された。」(預言の霊1巻p348)「洗盤は祭壇と会見の幕屋の間に置かれていた。会衆の目の前で、神の御前に出る前に、彼らが自分たちの手足を洗うためである。これは人々にどのような印象を与えたことだろう。どんなにわずかな塵でも、彼らが神の御前に出られるようになる前に取り除かれなければならないことを示すためであった。なぜならそのかたはいと高き聖なるかたであって、彼らがこれらの条件に従わないかぎり後に死が続くからである。」(教会への証2巻p614)

水での洗い

「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、それをきよめて聖なるものとするためであり、」(エペソ5:26)。「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」(ヘブル10:22)。「ペテロと兄弟たちは、罪と汚れとを清める大いなる泉で洗われていた。キリストは彼らをご自分のものとして認められた。」(各時代の希望 下巻122)「人は、もう一度再生の洗いによって神の恩寵を受けるようになった。この洗いはキリストの死にあずかるように、水の中へ埋葬されることであり、神の律法の違反を悔い改める者はすべて、聖霊の働きをとおして、精錬と清めを受けることをあらわしている。バプテスマは、聖霊によって新

しくされることによる真の改心をあらわしているのである。」(信仰によって私は生きる143)。バプテスマによってキリストと共に葬られた者は、そのかたの復活の様にひとしくよみがえったのであり、新しい命に生きることを誓ったのです。

命を与える水

「その日には、罪と汚れとを清める一つの泉がダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。」(ゼカリヤ13:1)。「しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。」(ヨハネ19:34)。「このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。」(ヨハネ第一5:6)。「打たれた岩は、キリストの型で、この象徴によって、最も尊い霊的真理が教えられた。打たれた岩から生命を与える水が流れ出たように、「神にたたかれ」「われわれのとがのために傷つけられ」「われわれの不義のために砕かれた」キリストから、失われた人類のための救いの川が流れ出たのである(イザヤ53:4,5)。岩が一度打たれたように、キリストも「多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた」のである(ヘブル9:28)。われわれの救い主は、二度と犠牲になられるべきではなかった。キリストの恵みの祝福を求める者は、悔い改めて、主の御名によって、心の願いを述べるだけでよいのである。こうした祈りは、イエスのみ傷を万軍の主のみ前にもたらし、新たにもう一度、生命を与える血潮を流れさせるのである。イスラエルのために岩から水が流れ出たことによって、それが象徴されていたのである。」(人類のあけぼの 下巻9)。「かわききった荒野にわき出て、荒れ果てた地に花を咲かせ、死にかけたものに生命を与えるために流れ出た新鮮な水は、キリストだけが与え得る神の恵みの象徴である。これは、命の水のように魂を清め、生きかえらせ、力づける。」(人類のあけぼの下巻10)。

水をもってもう一度生まれる

「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)。「真の罪の悔い改め、イエス・キリストの功績を信じる信仰、そして水から上げられて新しい命を生きるためにそのかたの死にあずかるバプテスマ、これらはキリストがニコデモに、彼が救われるために経験しなければならないとお教えになった、キリストにある新しい誕生の最初の段階である。」(ユース・インストラクター1874.2.1)「イエスのみ言葉は、それ以上誤解されようがなかった。そのかたに聞いた者は、イエスが水のバプテスマと神の恵みに関して述べられたのだということをよく知っていた。聖霊の力は、全存在を変える。この変化によって新しい誕生が成り立っている。」(預言の霊2巻p127)。「キリストは、ここで水のバプテスマと聖霊によって心が新しくされることに言及された。」(信仰によって私は生きる145)

バプテスマ

「罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマ」(マルコ1:4)「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである」(ローマ6:4)。「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところに来て、バプテスマを受けようとされた。…しかし、イエスは答えて言われた、『今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである』。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした」(マタイ3:13-15)。「しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。」(ルカ7:30)。「悔い改め、信仰、そしてバプテスマは、改心に必要な行程である。…クリスチャンが厳粛なバプテスマの儀式に従うとき、主は、その誓いをご自分に真実なものとして記録される。この誓いは、彼らの忠誠の誓約である。キリストは、バプテスマをご自分の霊的王国への入口のしるしとされた。そのかたはこれを、御父と御子、聖霊の権威のもとにあるものとして認められたいと望むすべての者が、従わなくてはならない絶対的な条件とされた。人が教会を自分の家とする前に、また神の霊的王国の敷居をまたぐ前に、彼は神聖な名のしるし、すなわち『キリストわれらの義』を受けなくてはならない(エレミヤ23:6)。…御父と御子、聖霊の三重の名においてバプテスマを受ける者は、自分たちがクリスチャン生活に入るときに、自分たちがサタンに仕えることをやめ、王の家族の一員、すなわち天の王の子となったことを、公に宣言するのである。彼らは、『彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、…そして汚れたものに触れてはならない。』という命令に従った。そのとき彼らに、『触れなければ、わたしはあなたがたを受け入れよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。』という約束が成就するのである(コリント第二6:18)。この時からこの信徒は、自分が神とキリストと聖霊に献身したものであることを心に覚えていなければならない。彼は、すべて世的な事柄よりもこの新しい関係を優先して第一としなければならない。バプテスマによって始まる霊的な契約で生じる義務は、相互的なものである。人間は、全心をもって服従することによって自分の分を果たすとき、『主よ、イスラエルでは、あなたが神であることを知らせてください』と祈る権利を持つようになる。あなたが御父、御子、聖霊の名によってバプテスマを受けたという事実は、もしあなたが助けを求めるならば、これ

らの力がどのような危急のときにもあなたを助けるという保証なのである。」(信仰によって私は生きる145)。

再生

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」(テトス3:5)。「人は再生の洗いによって、ふたたび神の恩寵を受けるようになった。この洗いはキリストの死にあずかるように、水の中へ埋葬されることであり、神の律法の違反を悔い改める者はすべて、聖霊の働きをとおして、精錬と清めを受けることをあらわしている。バプテスマは、聖霊によって新しくされることによる真の改心をあらわしているのである。」(信仰によって私は生きる143)。「すべて真の改革は、魂のきよめから始まる。生活に変化がもたらされるのは、聖霊の力によって再生の洗いと思いを新たにすることによる。」(神のむすこ娘たちp105)。

あなたは洗われましたか?

「あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ」よ(イザヤ1:16)。「世には自分の目にみずから清い者として、なおその汚れを洗われないものがある」(箴言30:12)。「エルサレムよ、あなたの心の悪を洗い清めよ、そうするならば救われる。悪しき思いはいつまであなたのうちにとどまるのか。」(エレミヤ4:14)。「そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい。」(使徒行伝22:16)。「祭司は、香柏とヒソプを用いて、それらをきよめの水に浸し、汚れたものにふり注いだ。これは、道徳的な不純物から私たちを清めるために注がれるキリストの血を象徴している。こうしてくり返しふり注がれることは、悔い改めた罪人のために成し遂げられなければならない働きが徹底的になされることを説明している。」(教会への証4巻p122)。

あなたは清めの力を求めてイエスの許へ行ったことがあるでしょうか。あなたは小羊の血で洗われているでしょうか。あなたは、今この時、そのかたの恵みに完全に信頼しているでしょうか。あなたは小羊の血で洗われているでしょうか。
あなたは日ごとに救い主のそばを歩んでいるでしょうか。あなたは小羊の血で洗われているでしょうか。あなたはたえず十字架にかかられたかたのうちに安んじているでしょうか。あなたは小羊の血で洗われているでしょうか。

花婿が来られるとき、あなたの衣は白いでしょうか。あなたは小羊の血で洗われているでしょうか。あなたの魂は、光り輝く住まいのために準備ができているでしょうか。そして小羊の血で洗われているでしょうか。
罪のしみのついた衣をわきへ置いて小羊の血に洗われているでしょうか。汚れた魂のためにあふれる泉があります。小羊の血に洗われますように。

あなたは、血で洗われているでしょうか。小羊の魂を清める血で。あなたの衣にはしわがないでしょうか。雪のように白いでしょうか。あなたは小羊の血で洗われているでしょうか。

「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう」(詩篇51:7)。

キリストにある新しい命

「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。」(コロサイ3:1)。このことは、私たちに前の章の12節で用いられている「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」という表現を思い起させます。埋葬される前に死ななくてはなりません。次のことも考えてみましょう。「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおその中に生きておれるだろうか。」(ローマ6:1,2)。「わたしたちは、このことを知っている。わたしたちのうちの古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び…ることがないためである。」(ローマ6:6)。私たちは、キリスト共に葬られ、ただ葬られるだけでなく、そのかたと共によみがえるのです。いつも死のことばかりを考えているために、クリスチャン経験の良いところを失ってしまっている人たちがいます。神がまた、私たちをそのかたと共によみがえらせてくださることを、そしてキリストのうちに自分たちの命が隠されることを感謝しましょう。このことによって、個人的に私たちにとってのキリストの死をはっきりと理解し、考えるようになります。「キリストに献身した魂は、キリストの御目には、全世界よりも尊いのである。救い主は、ひとりが御国に救われるためであっても、カルバリーの苦悩を経験されたであろう。主は、ご自分がそのために死なれた魂を決してお捨てにならない。」(各時代の希望中巻280)。

変化した生活

では、もし私たちがそのかたの死を受け入れたのであれば、私たちの過去の生活はどうなるのでしょうか。それは、あたかも私たちが一度も罪を犯したことがないかのようになります。「キリストの義を通して、私たちはあたかも罪を犯したことがないかのように神の前に許された者として立つのである。」(私たちの高い召し48)。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリント第二5:17)。では、彼の生活はどうでしょうか。そうです!新しいものとなります。彼の愛情、食欲、大志、彼の立ち居ふるまいと交わりはすべて新しくなります。「清められた心にとってはすべてのものが変わっているのである。品性の改変が行われたことによって、その人の中にキリストが宿っておられることが、世界に向かって、証拠だてられたのである。神の霊が魂のうちに新しい生命を生じさせて、思いと願いとをキリストのみ心に従わせるのである。そして、内なる人は神のかたちに変えられる。人々の罪を贖う恵みの力は、欠陥の多い人間を均整の取れた実り豊かな者にすることができるということを、弱く、過ちに陥りがちな男女が世界に示すのである。」(国と指導者 上巻200,201)。「私たちがキリストの義を着せられるとき、罪に対する興味がない。なぜなら、キリストが私たちと共に働いておられるからである。私たちは間違いを犯すかもしれないが、しかし、神の御子を苦しまることになった罪を憎むのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻360)。いったいキリストと密接に結合している者が、不信心な者を待ち受けている死について考えることに時間を費やすことができるでしょうか。いいえ!では、彼の思いはどこにあるのでしょうか。それは、上にあるのです。なぜなら、彼の命がキリストと共に神のうちに隠れて、そこにあるからです。そのときにはじめて、新しくされた者は求めることができます。「まず神の国と神の義とを求めなさい。」(マタイ6:33)。しかし、私たちは、どこでそれを求めるべきでしょうか。それは、キリストのうちにです。なぜなら、神はそのかたを私たちにとって「知恵と義と聖とあがない」とされたからです。私たちが神の義とされるのは、そのかたのうちにおいてです。しかし、神の義は神の命ですから、私たちがそのかたの命を受けずに、ただそのかたの義だけを受けるというのは不可能です。この命はキリストのうちにあります。なぜならキリストは神だからです。そして神はキリストのうちにおられ、ご自分に世を和解させられました。この地上で生きた完全な義の生涯は、ただキリストの生涯だけです。そのかたの命だけが罪に抵抗されたのでした。「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼には何らの罪がない。」(ヨハネ第一3:5)。キリストの命は神の義です。私たちはそれを求めるべきです。しかし、人間が神の命を生きることはできません。ただ神のみが、ご自身の命を生きることがおできになるのです。神の命を生きることができるなどと思うことがあるとすれば、それは思いあがりの極みといえます。もし、幾分かの義があるとすれば、神の命が人間のうちにあらわされなければなりません。しかし、神ご自身がその命を生きられるのです。使徒パウロは、そのことをこのように表現しています「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きていおられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:20)。

新しい祝福された経験

「そして、神のみ働きを信じる彼らの信仰が現れて彼らは贖罪の犠牲により頼むようになる。彼らはキリストの豊かな恵みと義を個人的に自分たちにあてはめる。そして、彼らにとってそのかたはいと近き救い主となるのである。なぜなら、彼らは自分たちがそのかたを必要としていることを悟り、完全な信頼をもってそのかたのうちに憩うからである。彼らは神の尽きることのない泉から命の水を飲む。新しい祝福された経験の中で、彼らはキリストに自分自身を全くゆだね、神の性質にあずかる者となる。人性と神性が日々共に働き、心にキリストに対する感謝と讃美がわきでてくる。クリスチャン経験において天の霊感が役割を果たし、私たちはキリスト・イエスにある満ちみちた徳の高さの男女にまで成長する。これがキリストの品性の知識における成長であり、魂を清めるのである。贖罪の素晴らしい働きを認識し、正しく理解することによって、人は救いの計画を熟考する者に変えられる。キリストを眺めることによって、彼は同じ姿に栄光から栄光へと、主の霊によって変えられるようになる。イエスを眺めることが、人を実際のクリスチャンにまで高めて精錬する過程となる。その人が模範となる原型を見て、その同じ様に成長していくとき、不和や競争、争いはなんと簡単に解決されてしまうことであろう。キリストの品性の完全さが、クリスチャンの霊感なのである。私たちがそのかたをありのままに見るとき、そのかたのようになりたいという望みが起こり、これがこの人の全存在を高めるのである。なぜなら、『彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする』からである(ヨハネ第一3:3)。」(レビュー・アンド・ヘラルド1890.8.26)。「人が異常な環境の中で霊的な恍惚状態をあらわしたからといって、その人がクリスチャンであるという証拠にはならない。聖潔は、忘我の境地ではない。それは、神のみ旨に全く服従することである。それは、神のみ口から出る一つ一つの言葉によって生きることである.。それは、私たちの天父のみ旨を行うことである。それは光のうちにあるときと同様に試みのときにも暗やみにあっても神に信頼することである。それは、見るところによらず、信仰によって歩むことである。それは、疑問をさしはさむことなく確信をもって神により頼み、そのかたの愛に憩うことである。」(信仰によって私は生きる140)。