燭台の目的は、ひとえにあかりを上において照らすことにあります。聖所の第一の部屋には器具が三つあります。供えのパンの机と、香壇、そして金の燭台です。はじめの二つはアカシヤの木に金をおおって造られました。しかし、この3番目の金の燭台は、純金のみで造られました。このことは私たちに非常に大切な教訓を与えています。純金だけが燭台の材料でした。

義とされた罪人が信仰によって第一の部屋に入りますと、右側に、すなわち北側に供えのパンの机があり、そこで、彼は「生きたパン」すなわち、「それを食べる者は、いつまでも生きる」パンを味わいます(ヨハネ6:51)。これらは、「言葉」であり「肉体とな」られてわたしたちのうちに宿られたイエス・キリストを象徴しています(ヨハネ1:14)。また、語られ記されたみ言葉、すなわち聖書を表わしています。「わたしがあなたがたに話した言葉は…命である。」(ヨハネ6:63)。

西側、すなわち至聖所の幕の前には、香壇があります。その上で朝夕ごとに香がたかれました(出エジプト30:7-8)。この香は、「聖徒たちの祈り」を象徴しています(黙示録5:8)。聖所全体に満ちたこの香は、義とされた罪人の祈りがイエス・キリストの絶え間ないとりなしを通して神に受け入れられることを私たちに教えています。

南側にあたるその人の左側には、純金の打物造りで造られた燭台があり、その上に純粋なオリブ油であかりがともされ、部屋全体を照らしていました(レビ記24:2)。そしてこのあかりもしくは光は、神のみ言葉を象徴しています。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)。またこの燭台は、み言葉によって、また純粋なオリブ油に象徴されている聖霊の働きによって導かれる神の民と教会をも象徴しています。ですから、そうするときにはじめて、人や教会は全世界に光を照らすことができるのです(マタイ5:14-16)。

したがって、義とされた罪人すなわち真のクリスチャンは、聖霊の働きをともなうみ言葉によって導かれる者であり、また彼はイエス・キリストのとりなしによって自分の天父に受け入れられる祈りをささげることができます。さらに、彼は自分の救い主が自分のために何をして下さったのかを他の人々に語らずにはいられません。つまり、伝道をすること、あるいは自分の周りにいるほかの人々に光を照らすことは、彼にとって自然なことなのです。こうするとき、義とされた罪人は自分の義を保つことができ、キリストのようなものになるのです。これが、聖所のはじめの部屋で体験できる聖化の過程といわれるものです。

イエス・キリストの働きによって義とされた者は、日ごとにそのかたから助けを受けることができます。こうするときにのみ、彼らは「悪しき者から」守られ、「真理によって」きよめられたのでした(ヨハネ17:15,17)。なぜなら、聖化はただ「神の言葉と祈りとによって」体験できるものだからです(テモテ第一4:5)。そのとき、彼らはたしかに「すべての人に知られ、かつ読まれている」「キリストの手紙」となるのです(コリント第二3:2,3)。

燭台から私たちが学ぶことのできるもう一つの大切な教訓は、これが純金だけで造られたということです。「金」は神のみ言葉によれば「信仰と愛」を象徴しています。「真の富とは、本物の信仰と本物の愛である。これらは、キリストにあって品性を完全なものにする。もし、もっと信仰があるなら、すなわちイエスに信頼する単純な信仰があるなら、そこにはクリスチャン品性の金である愛、すなわち純粋な愛があるはずである。」(天国でp173)。「キリストに対する信仰と信頼そして愛の生きた原則は、日常生活の最も小さな事柄にもゆきわたる。イエスを眺めることとそのかたに対する愛とが絶え間ない動機となって、どの義務を果たすときにも生きた力が与えられる。義、すなわち「失望に終ることのない」希望を追い求めて苦闘する。何をするにも、神の栄光のためにするのである。」(教会への証6巻p171)

私たちが本当に私たちの救い主であられるイエスに対する信仰と愛に満たされるとき、ただ座って話してはいられず、立ちあがって出て行く。他の人々に救いのよき知らせについて語るのである。「しかし、彼らはこのすばらしい知らせを伝えなくてはならないと思うと、座って語っていることができない。彼らの疲れと空腹はどこかへいってしまった。彼らは、彼らは、食事に手もつけないで、喜びのあまり、すぐにもう一度さっきやってきた道をでかけ、都の弟子たちにこの知らせを伝えるために急ぐ。道は安全でないところもあったが、彼らは、つるつるすべる岩にすべりながら、けわしい場所を越えて行く。彼らは、自分たちと一緒に道を歩かれたおかたの保護があることを見もしなければ、知りもしない。旅のつえを手にして、彼らはもっとはやくもっとはやくと願いながら道を急ぐ。彼らは道を見失ってはまた発見する。時には走りながら、時にはつまずきながら、彼らは目に見えない道連れイエスに途中ずっとそば近くにつきそわれながら、前進する。夜は暗いが、義の太陽が彼らを照らしている。彼らの心は喜びにおどる。彼らは新しい世界にいるような気がする。キリストは生きていおられる救い主である。彼らは、もはやキリストが死んでおられるといって嘆かない。キリストはよみがえられたのだと、彼らは何度も何度もくりかえす。この知らせを、彼らは悲しんでいる者たちに伝えるのだ。彼らは、エマオヘの道中の不思議な話を弟子たちに語らねばならない。彼らは、途中でだれと一緒になったかを語らねばならない。彼らは、世に与えられた最高のメッセージ、今も永遠までも、人類家族の望みがかかっている嬉しいおとずれをたずさえているのだ。」(各時代の希望下巻p338)

「福音を恥としない」者たちにとって(ローマ1:16)、そして救いのよき知らせを他の人々に伝えるために喜んで走っていく者に、力が約束されている。「ペンテコステの当日、聖霊が注がれたその結果はどうであったろうか。復活された救い主についての喜ばしい知らせは、人の住むところにはどこにでも伝えられた。弟子たちがあがないの恵みについての使命を伝えると、人々の心はこの使命の力に従った。教会は四方から集まってくる改心者を見守った。信仰を棄てた人々ももう一度悔い改めた。罪人たちは、高価な真珠を求めて信者たちに加わった。福音に最も激しく反対していた人々もその擁護者になった。…ただ一つの関心が支配し、一つの対象を求める熱意が他のすべてを飲みこんだ。信徒の望みはキリストのご品性に似たものとなることであり、神の国を発展させるために働くことであった。」(患難から栄光へ上巻p44)

出て行ってご自分とそのすべての教えを他の人々に教えなさい、とイエスがおゆだになった働きを私たちが実行するときには、私たちと共にいてくださると、イエスご自身が約束してくださった。「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:20)。「あなたを守る者は…まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:3,4)。「キリストは七つの燭台の間を、教会から教会へ、会衆から会衆へ、心から心へと歩んでおられる。イエスラエルを守る者は、

どろむことも眠ることもない。もし、燭台が人間の管理にまかされたとしたら、そのあかりはなんとしばしば揺らめいて消えてしまったことであろう!しかし、神はご自分の教会を人間の手に渡されることはなかった。キリスト、すなわちご自分を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得られるようにと世のためにご自分の命をお与えになったかたが、神の家の見張り人なのである。そのかたが忠実で真実な、主の宮の庭の門守であられる。」(彼を掲げよ10月31日)
そうです!金の燭台はキリストに守られているのです。

金の燭台とその場所

「また純金の燭台を造らなければならない。」(出エジプト記25:31)。「幕屋の南側に、机に向かい合わせて燭台を置かなければならない。」(出エジプト記26:35)。「聖所には、南側に燭台があって、その七つのともし火が、昼も夜も聖所を照らしていた。」(各時代の大争闘 下巻p124)「幕屋には窓がなかったために、あかりは一度に全部消されることはなく、昼夜の別なく光を放っていた。」(人類のあけぼの 上巻p408,410)
「これらの聖なる部屋には、明かりが入る窓がなかった。一塊の金を打ちたたいて造った燭台が夜も日も灯しつづけられて、両方の部屋に光を投げかけていたのである。金でおおわれた壁には燭台の七つの灯火から輝く光が反射し、幕は青や紫、緋色で輝くケラビムの刺繍が豊かに施され、供えのパンの机や香壇はみがきあげられた金のようにきらめいていた。これらは、みな言葉では表現できない壮麗で栄光に満ちた場面を示していた。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1880.6.24)

純金で造られる/部屋にある他の器具との違い

「純金の燭台と、そのもろもろの器」(出エジプト記31:8)。「また純金の燭台を造った。」(出エジプト記37:17)。「南側には、七本に分かれて七つのあかりを灯した燭台があった。そのわざには精巧に細工したゆりに似た花の装飾が施され、全体はひとかたまりの金塊によって作られていた。幕屋には窓がなかったために、あかりは一度に全部消されることはなく、昼夜の別なく光を放っていた。」(人類のあけぼの 上巻p408,410)

「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い」なさい(黙示録3:18)。「真の証人なるキリストが仰せになった金は、すべての者が持たなくてはならないものであり、結合された信仰と愛であって、愛が信仰にまさることをわたしは示

された。」(教会への証2巻p36)

打物造り

「また純金の燭台を造らなければならない。燭台はと打物造りとし」(出エジプト記25:31)。「また純金の燭台を造った。すなわち打物造りで燭台を造り」(出エジプト記37:17)。「燭台の造りは次のとおりである。それは、金の打ち物で、その台もその花も共に打物造りであった。モーセは主に示された型にしたがって、そのようにその燭台を造った。」(民数記8:4)。

「わたしの言葉は…岩を打ち砕く鎚のようではないか。」(エレミヤ23:29)。「あなたの品性建設においてこのような働きが大いに必要とされているかもしれない。あなたは神の宮の一部をしめるのにふさわしくなる前に、四角にされて磨かれなければならないあらけずりの石かもしれない。あなたは神があなたのために用意して下さった場所をしめる準備ができるまで、神があなたの品性の欠点を鎚とのみで取り除かれたとしても驚くにはおよばない。人間はだれ一人として、この働きを完成させることができない。ただ神によってのみ成しとげられるのである。そしてそのかたは一度たりとも無意味に打つことはないと確信しなさい。このかたは一つ一つを、あなたの永遠の益と幸福のために愛をもって打たれる。このかたは、あなたの弱さをご存知であって、破壊するためではなく回復するために働かれるのである。」(この日を神と共にp23)

つぶして採った純粋の油

「あなたはまたイスラエルの人々に命じて、オリブをつぶして採った純粋の油を、ともし火のためにもってこさせ、絶えずともし火をともさなければならない。」(出エジプト記27:20)。「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。」(レビ記24:2)。「油は聖霊の象徴である。」(キリストの実物教訓p385)「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ8:26)。

金の油

「重ねてまた『この二本の金の管によって、油をそれから注ぎ出すオリブの二枝はなんで

すか』と言うと」(ゼカリヤ4:12)。
「金の油は、人間の技能によって製造されたものではなかった。暗やみの中にいる者がだれでも天の光をまわりに放つことができるのは、神のみ座の前で彼らと交わろうと待っている天の使命者の目に見えない力によるのである。神と信仰によって一つになっている者の心には、そのかたの愛の金の油が豊かに流れ込み、よい働きとなって、真実心に感じる神への奉仕となってふたたびあふれ出る。これらの魂は自分のまわりの人々にとって祝福となり、このようにして輝くことができるのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1897.9.21)。「だれでも、自分の力によって、神のために光を掲げる者となることはできない。天からの…油…によって、光があかあかと輝いたのである。人間も神の愛が絶えず注がれることによって、光を放つことができる。すべて、信仰によって、神と結合した者の心には、愛という金の油が豊かに流れ込んで、よい行いや、神に対する真心からの奉仕となって輝き出るのである。」(キリストの実物教訓 p394)

七つのともし火

「御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。」(黙示録4:5)。「天の聖所の聖所と至聖所は、地上の聖所の二つの部屋によって表わされている。使徒ヨハネは、幻の中で、天にある神の宮を見ることを許されたとき、『七つのともし火が御座の前で燃えてい』るのを見た(黙示録4:5)。…ここで、預言者は、天の聖所の第一の部屋を見ることを許された。そして、そこに、地上の聖所の金の燭台と香壇によって表わされていたところの、『七つのともし火』と『金の香壇』を見た。」(各時代の大争闘下巻p414)

枡の上に

「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。」(マタイ5:15)。「あなたの光は枡の下にあったり、寝台の下にあったりしてはならない。それは、燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさなければならないのである。あなたの家というのは世界である。」(ライフ・スケッチp208)。「兄弟がたよ、あなたがたが自分のあかりを枡や寝台の下においておくことは正しいことだろうか。主があなたに明白にこうすべきだと仰せになったことをする方が良くないだろうか。今、あなたは自分の好みや、自分の道をやめて主のみ声に従うことを決心なさい。…そして、枡の下からあかりをとりあげて、すなわちあなたの財政的関心にとってもっとも好ま

しいと思える場所からそれを取りだして、また寝台の下から、すなわちあなたの安楽にとって最も好都合な場所からそれを取りだして、それを燭台の上に置きなさい。そうすれば、あなたの家にあるすべてのものを照らすのである。」(教会への証8巻p76)

世の光

「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしにしたがって来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。』」(ヨハネ8:12)。「キリストは暗やみに輝く光である。」(ユース・インストラクター1895.1.3)。「キリストの弟子たちは、自分たちの主を世に表わすように要求されている。彼らは、天への道にあってたいまつを掲げるものとして定められてきた。あかりは、枡やあるいは寝台の下に置く魂に与えられることはない。そうではなく、寝台の上に置いて、家の中にあるすべてのものを照らすためである。…弱いあかりが灯されつづけなくてはならない。イエスは、世に来たるすべての人を照らす大いなる光である。…すべての光の大いなる源であられるかたは絶えず輝き、そのかたの光線をとらえる者は、他の人にその光を反射させ、この暗い世にあって光を担う者となるのである。…イエスのもとに来なさい。このかたは世の光であられる。」(AUCR1907.5.6)

 

燭台を守る者

「七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。」(黙示録2:1)「あなたが…見た…七つの燭台は七つの教会である。」(黙示録1:20)「見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)「イエスは、ご自分に従うと公言する者の品性を測っておられる。このかたは会衆から会衆へ、教会から教会へと礼拝者たちを測りながら進んでいかれる。このかたは神のむすこ娘たちだと主張する者たちの後について、仕事上取引において、また商売において、あるいは生活のあらゆる事柄において、彼らを測っておられる。イエスのもとにいる羊飼いたちには大きな責任がある。なzせなら、彼らの務めの徳によってキリストをあらわし、真理のきよめの力をあらわさければならないからである。これらの羊飼いたちは、まどろむかもしれない、また真理の言葉を正しく教えることに失敗するかもしれない、彼らは群れのために用意された牧場を指し示すことに失敗するかもしれない。世の光となる代わりに、暗やみのうちを歩むかもしれない。彼らは、不信の暗い山々につまづくかもしれない。しかし、イスラエルを守られる真の羊飼いは、まどろむことも、眠ることもないのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1890.1.21)

 

あなたがたは世の光である

「あなたがたは、世の光である。…あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。」(イザヤ60:1)「光とはなんであろうか。それは、敬神、善、真理、恵み、愛である。それは、真理を品性と生活の中に現わすことである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1912.12.26)「キリストは人間がこの世にいるあいだにご自分の神性にあずかる者となることを期待しておられる。こうして、神を讃美してご自分の栄光を反射させるだけでなく、世のやみを天の輝きで照らすことを望んでおられる。このようにして、キリストのみ言葉が成就するのである、『あなたがたは、世の光である』。」(教会への証5巻p731)「人間を明るく輝く神のための光としつづけるものは、絶えず人間に注がれる神の愛である。そのとき彼は、誤りと罪の暗やみにいるすべての者たちに、真理の光を届けることができるのである。(レビュー・アンド・ヘラルド1897.9.21)「輝かすというのは、クリスチャンの仕事である。」(PMp284)