神がモーセに聖所を建て、聖所と至聖所を分けるようにとにお命じになったとき、「その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。」(出エジプト記26:33)
至聖所は、いと高き者の謁見室を象徴しており、聖なるあかしの箱が安置された聖所の中で最も神聖な場所でした。ふたりの金のケルビムに守られ、金できらめいていたこのあかしの箱には、すべての者がさばかれる「自由の律法」、すなわち十誡の記された石の板が納められていました(ヤコブ2:12 初代文集p411)。このあかしの箱は、恵みのみ座でおおわれており、そのみ座の上に、ふたりの金のケルビムが高くつばさをのべていました。このケルビムのあいだ上方には、シェキーナーすなわち目に見える神の栄光の臨在がありました。また、恵みのみ座の上には、二人の天使の間に金の香炉がおかれていました(ヘブル9:3-4 初代文集p91,411)。これは大祭司が入るときにそこに置かれましたが、他のときは金の香壇のところにあり、いずれも香をたくためでした(初代文集p411,412)。そこから、香がたちのぼり、シェキーナーの栄光をおおいかくすとばりのように、芳香で部屋を満たしたのでした。

あかしの箱を囲む金の壁には御使の姿があり、また幕や天井の内側をおおう布も、輝く金糸で見事に刺繍されたケルビムでおおわれていました。あらゆる方向に描き出されたこれらの輝く御使いたちは、神のみ座を取り囲む「無数の」天使たちの一群を象徴しています。また、黄金に映える、天井や幕の青色や紫色そして緋色は、み座を囲む虹を指し示しています。この部屋全体が、シェキーナーの臨在によってまばゆく輝き、その栄光がまわりの金に反射してあらゆるところに満ちていました。「だが、このすべては人間の贖いのわざの中核である、天にある神の神殿の栄光をおぼろげに反映するものにすぎない」のでした(人類のあけぼの 上巻p411)。天での光景の栄光は言語に絶する、と言われても不思議ではありません。「また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。そこには金の香炉と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、…箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここでは、適確に描写することができない。」(ヘブル9:3-5英文訳)

庭で手にする義認が、聖所に入るためのクリスチャンのパスポートであるように、聖所でなしとげられた聖化が至聖所に入るためのパスポートです。シェキーナーの栄光で満ちている至聖所は、栄光の部屋とも言えるでしょう。私たちの体験において、これはどのような意味をもつのでしょうか。キリストが十字架にかかられる前に最後に弟子たちのために祈られたのは、「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。」(ヨハネ17:5,22)ということでした。私たちは、どのようにしてこの栄光を自分のものとすることができるのでしょうか。これは、ただ個人的な辛抱強いクリスチャン経験によってのみ得ることができるのです。庭の体験を通して私たちに着せられたキリストの義が、私たちのすべての過去の罪をおおって私たちに和解と義認を与えるとき、また今、聖所でこのかたの義が私たちに与えられ、日ごとに罪の力から私たちが自由にされて聖化へと導かれるとき、そして、私たちが最期まで真実で忠実でありつづけるとき、そうしたときにはじめて、至聖所にて予表された栄化の準備ができるのです。

神に聖所を建てるようにと命じられましたモーセは、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」と祈りました(出エジプト記33:18)。私たちにとって、この栄光が何であるかを知ることは大切です。「私たちが、地上歴史の終りに近づくにつれ、サタンは私たちの上に地獄の影を投げかけようと努力をさらに倍増する。それは、私たちの目をキリストから引き離すためである。もしサタンが、私たちにイエスを眺めさせないようにすることができるなら、私たちは打ち負かされてしまう。しかし、私たちは彼にこれを許してはならない。なぜなら、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」からである。主の栄光とは何であろうか。モーセは、『どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください』と祈った。そのとき、主は『わたしはもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ』『主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、

まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決して許さず」。』と言われた。神の栄光とは、そのご品性である。それはキリストの内にあって私たちに表された。であるから、キリストを眺めることによって、そのご品性を熟考することによって、このかたの教訓を学ぶことによって、このかたのみ言葉に服従することによって、私たちはこのかたの姿に変えられるのである。このかたの霊によって照らされるとき、私たちは自分の中に何の徳も功績も見出すことができない。自分の中にはゆがんだ欠陥しかないことを悟るのである。しかし、贖罪の犠牲の中に、また人を正しい者とするこのかたの義のうちに、またこのかたの満ちみちた恵み—私たちはただこの恵みによってのみ、許しだけでなく聖化をもいただくことができるのであるが—の中に贖い主の栄光があらわされ、これが魂全体に愛と敬愛を満たすのである。そして、私たちは神のいつくしみと恵み、また愛を熟考することによって、品性が変えられるのである。」(SSW1894.7.1)

私たちは、中空を飛ぶ御使いが「大声で…『神を恐れ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。』」と叫ぶ時代に生存しています(黙示録14:7)。このメッセージは、天の至聖所で行なわれる大贖罪の日の本体の時代に生きる者たちに、直接あてはまります。なぜなら、「天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた」(黙示録11:19)。からです。何の目的のためでしょうか。それは、調査審判のためです。わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。…審判を行なう者はその席につき、かずかずの書物が開かれた。」(ダニエル7:9,10)。
「イエスは、聖所における奉仕を終わり、至聖所に入って、神の律法を納めた箱の前に立たれたときに、世界に対する第三の使命をたずさえたもう一人の力強い天使を、お送りになった。…第三の天使は、『ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言って、メッセージを終っている。彼は、この言葉を繰り返したときに、天の聖所を指差した。このメッセージを信じるすべての者の心は、至聖所に向けられる。イエスはそこで箱の前に立って、恵みがなお与えられているすべての人々と、知らずして神の戒めを破った人々のために最後の仲保をしておられるのである。」(初代文集p414)

ですから、神の民は目をまっすぐ神の戒めに向けていることが必要です。なぜなら、それが天にふさわしい品性の唯一の標準となるからです。「シナイ山から与えられた神の戒めは無限の神の思いとみ旨の写しである。聖天使たちはこれを聖なるものとしてあがめている。その要求に服従することによって、クリスチャン品性は完全なものとなり、キリストを通して堕落前の状態に人間が回復されるのである。律法で禁じられている罪を、天で見出すことは決してできない。」(私たちの高い召し5月12日)

神は、地上歴史の最後の時代に生きる私たちが、完全な品性を持つようにと望んでおられます。「神は『そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光(品性)にあずからせて下さるからである。』また『更に御子のかたちに似たものとしようとして』、われわれを招かれたのである(テサロニケ第二2:14、ローマ8:29)。」(各時代の希望 下巻p68)いったいこれは手に入るものなのでしょうか。「神がご自分の子らのためにもっておられる理想は、最も高尚な人間さえ、考え及びもしないものである。生ける神は、ご自分の聖なる律法のうちにご自分の品性の写しをお与えになった。世が知っている最も偉大な教師は、イエス・キリストである。そしてこのかたが、ご自分を信じるすべての者が到達するようにとお与えになった標準は何であろうか。『それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。』(マタイ5:48)。神がご自分の領域において完全であられるように、人間も自分の人としての領域において完全になることができる。クリスチャン品性の理想は、キリストのような品性である。私たちの前には、絶えざる前進の道が開かれている。私たちには到達するべき目標があり、また獲得すべき標準がある。これには、あらゆる善いこと、純潔なこと、高貴なこと、また高尚なことが含まれているのである。そこには、品性の完全へ向かって絶えざる苦闘とたゆまない前進、および向上があるべきである。」(天国でp141)

「神が要求しておられる品性の完全は、全存在を聖霊の住む宮として、ふさわしいものにする。」(キリストを映してp165)「キリストは私たちに罪のない模範を残してくださった。キリストに従う者は、そのみ足の跡に従うのである。もし彼らが品性において変えられないなら、キリストと共にその王国に住むことは決してできない。キリストは彼らを高め、高尚にするために死なれた。だから、悪への遺伝的な傾向を持ち続ける者は、このかたと共に住むことはできないのである。このかたは肉体を持つ人間が耐え得るあらゆる苦悩に、苦しまれた。それは、私たちがサタンが私たちの信仰を打ち砕くために考案するあらゆる誘惑を勝利のうちに通過することができるようにするためである。」(GCB1899.10.1)。そうです!これが天にある聖所の至聖所から送られている神からのメッセージです。「キリストの品性の完全が、私たちにも完全を手に入れることを可能にさせるのである。」(原稿14巻p351)

「その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。また至聖所にあるあかしの箱の上に贖罪所を置かなければならない。」(出エジプト記26:33,34)。「また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。そこには金の香炉と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここでは、適確に描写することができない。」(ヘブル9:3-5)「内部のとばりの奥は至聖所であったが、これが贖罪と仲保との象徴的奉仕の中心であり、また、天と地を結ぶ輪であった。」(人類のあけぼの 上巻p410)。

そこでの奉仕

「しかし、幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。」(ヘブル9:7)。「細かくひいた香ばしい薫香を両手いっぱい取って、これを垂幕の内に携え入り、」「この日にあたなたがたのため、あなたがたを清めるために、贖いがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。」(レビ記16:12,30)。「年に一度、祭司は聖所のきよめのために至聖所に入った。そこで果たされる務めが、一年の務めを完了した。贖罪の日には、二匹のやぎが幕屋の戸口に連れてこられ、それぞれにくじが引かれた。すなわち、『一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのため』であった。はじめのくじに当たったやぎは、民のための罪祭としてほふられた。そして、祭司はその血をとばりの内部にたずさえて、贖罪所の上に注いだ。『イスラエルの人々の汚れと、そのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪のゆえに、聖所のために贖いをしなければならない。また彼らの汚れのうちに、彼らと共にある会見の幕屋のためにも、そのようにしなければならない』。『そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう』。このように、やぎが送り出されてはじめて、民は自分たちと罪から解放された者とみなした。贖罪のわざがなされている間、すべての人は魂を悩まさなければならなかった。日常の働きをやめて、イスラエルの全会衆は、その日を厳粛に神のみ前にへりくだって過ごし、祈り、断食し、心を深く探ったのであった。」(人類のあけぼの 上巻p419,420)。

きよめ:どのようにして罪が聖所に入るのか

「日ごとの奉仕は幕屋の庭の燔祭の祭壇と聖所とで行なわれ」た(人類のあけぼの 上巻p414)。「日ごとの務めのうちで最も重要な部分は、個人個人のために行なわれた務めであった。悔い改めた罪人は供え物を幕屋の戸口にたずさえ、このいけにえに手を置いて罪を告白し、こうして象徴的にその罪を彼自身から無垢の犠牲の上に移し変えた。それから動物は、彼の手で殺された。祭司は、血を聖所に運んで、この罪人の犯した律法を入れた箱の前方に垂れているとばりの前に注いだ。この儀式によって、罪は血によって象徴的に聖所に移された。」(人類のあけぼの 上巻p418)

 

除去:どのようにして罪が聖所から出るのか

「年ごとの奉仕は至聖所で行なわれた。」(人類のあけぼの 上巻p414)。「み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。」(詩篇51:9)「彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。」(レビ記16:33)。「贖罪に関する重要な真理がこの年ごとの務めによって民に教えられた。一年間にわたってささげられた罪祭によって、罪人に代わるものが受け入れられてきた。だが、いけにえの血が罪に対する完全なあがないを果たしたのではなかった。それは、ただ、罪が聖所に移される手段を提供したにすぎない。罪人は血をささげることによって、律法の権威を認め、律法に違反した罪を告白し、世の罪を除くおかたへの信仰を表明した。だが、彼は律法の宣告から完全に解放されたのではなかった。贖罪の日に、大祭司は会衆のための供え物をとり、血をたずさえて至聖所に入り、それを律法の板の上の贖罪所に注いだ。こうして、罪人の生命を求める律法の要求が満たされた。次に、祭司は、仲保者として自分の上に罪を負い、聖所を出てイスラエルの罪の重荷をになった。彼は幕屋の戸口でアザゼルのやぎに手を置き、『イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ』た。そして、これらの罪を背負ったやぎが送り出されるときに、罪はやぎと共に、永遠に民から切り離されたものとみなされた。これが、『天にある聖所のひな型と影』で行なわれた礼拝であった(ヘブル8:5)。」(人類のあけぼの 上巻p420)「だから、主のみ前から慰めの時がくるときに、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」(使徒行伝3:19英文訳)。「イエスの功績はとがをぬぐい去り、私たちに天の織機でおられた義の衣を着せてくださる。争闘の終りに与えられる栄誉として、私たちの前に命の冠が示されている。これらの尊い真理は、生きた真理として提示されねばならない。」(レビュー・アンド・ヘラルド1895.3.19)。

清い聖所と清い人々

「この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められる…。彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。」(レビ記16:30-33)。「このとき、真に悔い改めたすべての者の罪は、キリストの贖罪の血によって、天の書物から消される。こうして、聖所から罪の記録が除かれ、きよめられるのである。象徴においては、この大いなる贖罪のみわざ、つまり、罪を消し去ることは、贖罪の日の務めによって、あらわされた。すなわち、地上の聖所を汚していた罪を除いてきよめることは罪祭の血によってなしとげられた。真に悔い改めた者の罪が、ついに贖われて、天の記録から消されて、もはや思い出すことも心に浮かぶこともなくなるように象徴では罪は荒野に追いやられ、会衆から永遠に切り離された。…人間を贖い、宇宙を罪からきよめるキリストのみわざは、天の聖所から罪を取り除いて、これらの罪をサタンの上に置き、サタンが最後の刑罰を負うことによって閉じられる。…こうして、幕屋の務めと、後にこれにとって代わった神殿の務めから、民はキリストの死とその務めに関する真理を日ごとに学び、そして、毎年一度、彼らの心はキリストとサタンとの間の大争闘の終結、宇宙が罪と罪人から清められる最終的なきよめに向けられたのであった。」(人類のあけぼの 上巻p422,423)。

神の栄光

「あなたの栄光をわたしにお示しください。」(出エジプト記33:18)。「この栄光とは何であろうか。それは、神のご品性である。」(福音宣伝者p237)「神の栄光の光、すなわち、神の品性が、神に従う者のなかに輝きでなければならない。こうして、彼らは、神に栄えを帰し、花婿の家、すなわち神の都と小羊の婚宴への道を照らすのである。」(キリストの実物教訓p390)「この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。」(黙示録18:1)。「起きよ、光を放て。あなたの光が望み、主の栄光があなたの上にのぼったから。…しかしあなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。」(イザヤ60:1-2)。

完全な品性

「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)。「また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。」(エペソ5:27)。「キリストの品性が完全にキリストの民の中に再現されたときに、彼らをご自分のものとして迎えるために、主は来られるのである。」(キリストの実物教訓p47)「神の民は、その習慣において、単純、正直かつ純潔ですべての悪から解き放たれているべきである。神は完全な服従、完全な品性を要求しておられる。神に従う者だと主張しながら、その一方でこのかたのご品性を否定している者らによって、神のみ働きは著しく害されている。イエス・キリストの宗教は、決してそれを受ける者の品位を下げるようなことはない。それは、その人を純潔にし、神を見ることができる者とする。それは、万人にぬきんでておられるイエス・キリストのようになりたいという強い願望をその人に与えるのである。」(PH151p49)

完全な品性の標準

「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。」(ローマ7:12)。「律法で詳述されていることの一つひとつは、無限の神のご品性である。天の律法はいつも、他人に対して恵み深く、親切で、やさしく、助けとなり、人を高めるものなのである。」(信仰によって私は生きる3月19日)。「主はおのれの義のために、その教えを大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。」(イザヤ42:21)。「イエス・キリストは律法の栄光である。義の太陽の明るい光線は、このかたの使命者から罪人の思いの上に反射しなければならない。そうすれば、彼らは、昔の人と共に、『わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしきことを見させてください』というように導かれるのである。多くの者が、…神の律法のうちのくすしきことをはっきり識別していない。彼らはモーセが『あなたの栄光をわたしにお示しください』(出エジプト記33:18)と祈ったときに、彼にあわらされたことを見たことがない。モーセには神のご品性があらわされたのであった。」(信仰によって私は生きる3月19日)「神は神の子らに完全を求められる。神の律法はご自身の品性の写しであり、またすべて品性の標準である。…キリストの地上生活は神の律法の完全な表現であった。そして自分は神の子であると表明する者の品性がキリストのようになれば、彼らは神の戒めに従うのである。そのとき主は、天の家族を構成する一員として彼らを信頼することがおできになる。」(キリストの実物教訓p294)

第三天使は至聖所を指し示す

「第三の天使は、『ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言って、メッセージを終っている。彼は、この言葉を繰り返したときに、天の聖所を指差した。このメッセージを信じるすべての者の心は、至聖所に向けられる。イエスはそこで箱の前に立って、恵みがなお与えられているすべての人々と、知らずして神の戒めを破った人々のために最後の仲保をしておられるのである。」(初代文集p414)「仲保者イエスは、彼の血を信じる信仰によって勝利した者が皆、その罪を許され、再びエデンの家郷にもどって、『以前の主権』を彼と共に継ぐ者となるように、嘆願されるのである(ミカ書4:8)。サタンは、人類をあざむき、誘惑することによって、人類創造における神のご計画を挫折させようと考えた。しかし、キリストは今、人間が堕落しなかったかのように、この計画の実行を求められるのである。キリストは、ご自分の民のために、完全で十分な許しと義認だけでなくて、彼らが、ご自分の栄光にあずかり、共にみ座につくことを求められるのである。」(各時代の大争闘 下巻p216)

眺めることによって変えられる

「『わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。』…イエスが、世に遣わすと仰せになったのは、聖霊、すなわち私たちの品性をキリストの姿に変える慰め主である。そしてこれが成し遂げられたときに、私たちは、鏡に映すように主の栄光を映すのである。このようにキリストを眺める者の品性はキリストのような品性になり、その人を見る者は、あたかも鏡から輝きだしているかのようにキリストご自身の品性を見るのである。私たち自身も気づかないうちに、私たちは日ごとに、自分のやり方や意志からキリストの方法やみ旨に、またこのかたのご品性に美しさへと変えられる。このようにして、私たちはキリストのうちに成長し、自分でも気づかないうちに、このかたの姿を映すようになるのである。」(キリストを映してp20)「イエスを眺めることは、実際のクリスチャンへと高め、精錬する過程となる。その人は原型となるかたを見て、似た者に成長していく。そうすれば、紛争や張り合い、また争いは、いかにたやすく解決されることであろう。キリストの品性の完全によって、クリスチャンは鼓舞される。私たちがありのままのキリストを仰ぐとき、このかたのようになりたいとの強い願望がめざめ、これによって全人格が高められるのである。なぜなら、『彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする』からである。」(キリストを映してp304)