契約の箱は、聖所全体の中心であります。型においても本体においても、契約の箱の中にある破られた契約だけが、すべての聖所の奉仕が存在する理由です。主が聖所を造るように指示をお与えになったとき、まず命じられたのは、「彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。」(出エジプト記25:10)。それは、内も外も純金でおおわれ、上には縁のまわりに冠が飾られていました。契約の箱のふたは贖罪所(恵みのみ座)と呼ばれ、純金でできていました。

私たちは、主ご自身が破られた契約を贖罪所でおおわれ、恵み深い神なるこのかたがその上に座しておられるので、自分の罪を告白しに来るすべての罪人が、恵みと許しを得ることができるという事実に大きな慰めを見出すことができます。「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘブル4:16)。神のご臨在の目に見える象徴である栄光の雲に包まれ、またケルビムに囲まれたこの恵みの御座は、ご自分の御名を「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」と宣言された大いなる神のの御座の型であり、また影なのです。

この契約の箱には、主ご自身が記された聖なる律法があります。神はシナイ山の頂上から十誡をお命じになった後、これを二枚の石板に記してモーセにお授けになりました。そのとき、「あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。」(出エジプト記25:21)。「おまえが砕いた二枚の板に書いてあった言葉を、わたしはその板に書きしるそう。おまえはそれをその箱にに納めなければならない。」(申命記10:2)。「箱のうちには二つの石の板のほか何もなかった。これはイスラエルの人々がエ

ジプトの地から出たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで、それに納めたものである。」(列王記上8:9)。

契約の箱は、聖所の中で最も聖なる部屋である至聖所に安置されました。大祭司以外には死ぬべき人間の目がこれを見ることはできませんでした。そして彼も、一年のうちにただ一度、契約の箱に納められている破られた律法の贖罪のために、贖罪所の前と上に主のやぎの血を降り注ぐために入るだけでした。この律法の役割について、聖書は、「律法のないところには違反なるものはない。」(ローマ4:15)、「律法がなければ、罪は罪として認められないのである。」と述べています。(ローマ5:13)。ですから、主は、もしはじめの両親が主の律法について知らなかったとしたら、このかたは、決して彼らをエデンの園から追放することがおできにならなかったのです。「アダムとエバは、自分たちが創造されたときから、神のもともとの律法についての知識をもっていた。それは、彼らの心に刻み込まれており、彼らは、律法が自分たちに要求するところのものをよく承知していた。」(レビュー・アンド・ヘラルド1875.4.29)。「神の律法は、人間の創造以前から存在していた。そうでなければ、アダムは決して罪を犯すことができなかったのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1875.4.29)

「神の律法は、その性質そのものから考えても、不変のものである。それは、その制定者の意志と品性の啓示である。神は愛である。そして、神の律法は愛である。その二大原則は、神に対する愛と人間に対する愛である。『愛は律法を完成するものである』(ローマ13:10)。神の品性は、義と真理である。神の律法の性質もそうである。詩篇記者は言っている。『あなたのおきてはまことです。』『あなたのすべての戒めは正しい』(詩篇119:142、172)。そして、使徒パウロは、『律法そのものは聖なる者であり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである』と宣言している(ローマ7:12)。神の心と意志の表現であるこのような律法は、その制定者と同様に永続的なものでなければならない。
人間を神の律法の原則に調和させることによって神と和解させるのは、改心と清めの働きである。初めに、人間は神のかたちに創造された。人間は神の性質と神の律法とに完全に調和していた。義の原則が、彼の心に書かれていた。しかし、罪が彼を創造主から引き離した。彼は、もはや神のかたちを反映しなくなった。彼の心は、神の律法の原則と争うようになった。」(各時代の大争闘 下巻p194)

「しかし、キリストが地上にくだって苦難と死を受けられたのは、ただ人類の贖いを成し

遂げるためだけではなかった。キリストは、『律法をおおいなるものとし』(英語訳)これを『光栄あるものとする』ために来られたのである。この世界の住民が律法を正しく認識するようにするだけでなく、神の律法が不変なものであることを、宇宙の全世界に対して証明するためであった。律法の要求が廃止できるものであったら、神の御子は罪を贖うためにご自分の生命をささげられる必要はなかったのである。キリストの死は、律法が不変であることを証明している。罪人を救うために、父と御子が限りない愛に迫られて払われた犠牲—この贖いの計画以外に方法はなかった—は、公義とあわれみが神の律法と統治の基礎であることを全宇宙の前に証明している。
審判が最終的に執行されるとき、罪の理由は存在しないことが明らかになる。全地の審判者が、サタンに向かって『あなたはなぜわたしにそむき、わたしの国の民を奪ったのか』と聞きただされるとき、悪の創始者であるサタンはなんの言いわけもできない。どの口も閉じられ、反逆者の全軍は言葉もないのである。
カルバリーの十字架は、律法が不変なものであることを宣言していると共に、罪の価は死であることを宇宙に宣言している。『すべてが終った』との救い主の臨終の叫びによって、サタンに対する弔いの鐘が鳴らされた。長い間継続されてきた大争闘はここに決定し、悪の最終的な根絶が確実となった。…
全宇宙は、罪の性質とその結果について証人となるであろう。…サタンが束縛のくびきであると非難してきた神の律法は、自由の律法として尊ばれる。試練を通り越してきた被造物は、計り知れない愛と限りない知恵のおかたとしてそのご品性が自分たちの前に十分に現れされた神に対し、忠誠をひるがえすようなことはもはや二度とないのである。」(各時代の大争闘 下巻p241-242)

「『悪しき者のはかりごとに歩ま…ぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このようの人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える』(詩篇1:1-3)。神の律法がその正当な位置に回復されて初めて、神の民と称する人々の間に、初代の信仰と敬虔のリバイバルが起こり得るのである。『主はこう言われる、「あなたがたは分かれ道に立って、よく見、よい道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」』(エレミヤ6:16)。」(各時代の大争闘 下巻p209)

「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことは

できません。」(詩篇119:165)。

神の宮の中に見えた神のあかしの箱
「そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた」(黙示録11:19)。「地上の幕屋の箱には、神の律法が刻まれた二枚の石の板が入っていた。箱は、ただ律法のいたの容器にすぎなかったが、神の律法が入っていたために、それに価値と神聖さがあったのであった。天にある神の聖所が開かれたとき、契約の箱が見えた。天の聖所の至聖所の中に、神の律法が大切に安置されている。それは、神ご自身がシナイの雷鳴の中で語り、ご自分の手で石の板に書かれた律法であった。」(各時代の大争闘 下巻p152)

神の律法は神ご自身と同様に聖なるものである
「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」(ローマ7:12)。「神の律法は、神ご自身と同様に神聖なものである。それは、神の意志の啓示であり、神の品性の写し、神の愛と知恵の表現である。造られたものの調和は、生物であれ、無生物であれ、すべてのものが創造主の律法に完全に一致することにかかっている。神は、生物のためにだけでなく、自然のすべての営みを支配するために、法則をお定めになった。万物は、破ることのできない一定の法則の下にある。しかし、自然のすべてのものが、自然の法則に支配されているにもかかわらず、地上に住む万物の中で、人間だけは道徳律に従わなければならない。創造の最高のわざである人間に、神は、神の要求を認めて、その律法の義と慈愛と、そして、人間に対する律法の神聖な要求を理解する能力をお与えになった。人間には、ゆるがない服従が要求されているのである。」(人類のあけぼの 上巻p38)

律法は神の思想の表現である
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8,9)。「イエスは、われわれの地に住むためにおいでになることによって、人類にも天使にも神を示されるのであった。イエスは神のみことば――きこえるようにされた神の思想であった。」(各時代の希望 上巻p1)「律法は、神の観念(アイディア)の表現である。私たちがキリストにあってこれを受け入れるとき、それは私たちの思想となる。それは、肉の欲望と傾向の力から、また罪へと導く誘惑から私たちを引き上げるのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻p235)。「シナイで律法が布告されたとき、

神は、ご自分の品性の聖なることを人々にお知らせになったが、それは、対照的に彼らが自分自身の品性の罪深さを認めるためであった。律法は、彼らに罪を自覚させ、彼らに救い主が必要であることを明らかにするために与えられた。律法は、その原則が聖霊によって心に適用されるときに、この働きをするのであった。律法は今ものこの働きをするのである。キリストの一生には律法の原則が明らかにされている。…『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ』る。(詩篇19:7)」(各時代の希望 中巻p14)

わたしの心に記されるあなたの律法
「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:8)。「十字架から輝いている光は神の愛を表している。神の愛はわれわれを御許に引き寄せている。この引き寄せる力に逆らわなければ、われわれは救い主を十字架につけた罪を悔いて十字架の下に導かれる。その時神のみ霊は、信仰を通して魂に新しい命を生じさせる。考えることを望むことはキリストのみ心に服従させられる。心と思いは、万物をご自身に従わせるためにわれわれの内に働かれるキリストのみかたちに新しく造られる。その時神の律法は心と思いに記され、われわれはキリストともに、『わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます』と言うことができる(詩篇40:8)。」(各時代の希望 上巻p207,208)

石の板にではなく、人の心の板に
「そしてあなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」(コリント第二3:3)。「石の板に刻まれたのと同じ律法が、聖霊によって心の板に書かれるのである。自分自身の義を確立させようと努力する代りに、われわれは、キリストの義を受け入れる。キリストの血がわれわれの罪を贖うのである。キリストの服従が、われわれに代わって受け入れられる。こうして、聖霊によって新しくされた心は、『御霊の実』を結ぶのである。キリストの恵みによって、われわれは心に書かれた神の律法に従って生きるのである。キリストのみ霊をもっているから、彼が歩かれたように歩くのである。」(人類のあけぼの 上巻p442,443)

わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわ

ちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」(エレミヤ31:33)。「『古い契約』の条件は、従って生きよ、であった。『これは人がこれを行うことによって生きるものである』(エゼキエル20:11 レビ記18:5)。しかし、『この律法の言葉を守り行なわない者はのろわれる』(申命記27:26)。『新しい契約』は『さらにまさった約束』に基づいて立てられた。すなわち、罪の許しの約束、そして心を新たにして神の律法の原則に調和したものとする神の恵みの約束である。」(レビュー・アンド・ヘラルド1907.10.17)。

律法の役割
「律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである」(ガラテヤ3:24)。「この聖句の中で、聖霊は使徒を通して、特別に道徳律について述べている。律法は私たちに罪を明らかにする。そして、私たちにキリストの必要性を感じさせ、神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰を働かせることによって、ゆるしと平和を求めてキリストの許へ逃れさせるのである。
十誡は、禁じるものとしての側面より、恵みの側面からながめられるべきである。律法が禁じることは、これに服従するなら、幸福を保証するものである。キリストのうちに受け入れられる時、それは私たちのうちに、永遠にわたって私たちに喜びをもたらすことになる品性の純潔を生じさせる。服従する者には、律法は防御する城壁である。私たちは、その中に神の恵み深きことを見なければならない。このかたは、人間に変わることのない義の原則を明らかにすることによって、不法の結果生じる悪から彼らを守ろうとなさるのである。…」(セレクテッド・メッセージ1巻p234,235)

「律法を犯す時、そこには安全も休息も、義認もない。人が罪を犯しつづけている間は、神のみ前に無罪で立ち、キリストの功績を通して神と平和を保つことは望み得ない。その人は罪を犯すのを止めて、忠実で真実な者とならなければならない。罪人が大いなる道徳の鏡をのぞき見るとき、彼は自分の品性の欠点を見る。彼は、しみに汚れ、罪に定められている自分のありのままを見る。しかし彼は、律法はいかなる方法によっても、罪を取り除き、罪人に許しを与えることができないことを知っている。彼は、これよりも先に行かなくてはならない。律法は、彼をキリストに導くための養育掛にすぎない。彼は自分の罪を負ってくださる救い主を見なくてはならない。そして、全世界の罪の重さの下で死なれたカルバリーの十字架上のキリストが彼に現されたとき、聖霊は、自分の罪を悔い改めるすべての違反者に対

して神がどのような態度を取られるのかを彼に示されるのである。『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネ3:16)。」(セレクテッド・メッセージ1巻p213)

「思いがカルバリーの十字架にひきつけられる時、不完全な人間の目が、恥ずべき十字架上にキリストがおられるのをはっきりと見るようになる。なぜ、このかたは死なれたのだろうか。罪の結果である。罪とは何であろうか。それは不法である。その時、罪の性質を見る目が開かれる。律法は破られたが、違反者を許すことはできない。それは、罰を宣告する私たちの養育掛である。救済策はどこにあるだろうか。律法は、私たちをキリストへと追いたてる。このおかたは、ご自分の義を堕落した罪深い人間に与えて、こうして人類を御父にご自分の品性のうちに提示することがおできになるようにと、十字架上にかかられたのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻p341)

魂を改心させる
「主の律法は完全であって、魂を改心させる」(詩篇19:7英文訳)
「詩篇記者は『主の律法は完全であって』と言いました(詩篇19:7)。エホバの律法には、その単純さに、包括的な性質に、完全さに、何というすばらしさがあることであろう。それはとても簡潔に記されていて、私たちにもすべての規則を容易に記憶することができる。そしてなお、神の御旨を完全に表現するほどの遠大さを持ち、外面に現れた行動だけではなく、心の思想や意図、欲望や感情までも認知する。人間の律法にはこれが不可能である。彼らは、外に現れた行動を扱うだけである。人間は違反者になっても、人間の目からはその悪事を隠しおおせるかもしれない。人間は犯罪者、すなわち泥棒や殺人者、あるいは姦淫者となるかもしれないが、それが発見されない限り、律法はその人を有罪に定めることはできない。神の律法は、嫉妬、ねたみ、憎しみ