イスラエルの子らが、自分たちの神の力強さを目撃した後、彼らがシンの荒野にきたときに、彼らは食べ物のことでつぶやきました。「イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。イスラエルの人々は彼らに言った、『われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていたときに、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている』。」(出エジプト記16:1-3)

エジプトから携えてきたイスラエルの食糧は二か月半でつきてしまい、彼らはつぶやいたのでした。彼らは、自分たちの解放の価値を軽んじて、エジプトで死んでいれば良かったと思いました。それも、主の手によって、つまり、エジプト人を滅ぼした災害によって死んでいれば良かったと思ったのでした。彼らがエジプトで満ち足りていたとは考えられません。また、羊や牛の群れを飼っていた彼らが荒野で飢えのために死ぬのではないかと恐れたとも考えられません。ただ不満を言っていたのにすぎないことが分かります。神は、迅速かつ絶えざる供給を約束してくださいました。「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。」(出エジプト記16:4)。「イスラエルの人々はそれを見て互いに言った、『これはなんであろう』。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、『これは主があなたがたの食物として賜わるパンである』。」(出エジプト記16:15)「荒野で食物を得る方法が全くなくなったとき、神はご自分の民に天からマナを送りになった。そしてたえず十分な食物が与えられた。このような食物が与えられたのは、人々が神によりたのみ、神の道を歩むかぎり、神は彼らを見捨てられないということを教えるためであった。」(各時代の希望上巻p130,132)

イスラエル人がこれを見たとき、彼らはそれを「マナ」と呼びました。これは、「これはなんであろう」という意味です。このマナはおいしく健康によい食物でした。マナは天から降ってきました。それは、真珠のような色をしたこえんどろの種のように丸くて小さいものが、朝露と共にあらわれました。人々はかつてこれを見たことがありませんでした。それは、ひきうすでひいたり、またうすでついたりして、丸めて焼いて餅にしました。

「イスラエル人の教育には、すべての生活習慣が含まれていた。彼らが幸福な存在となるのに関わるあらゆることが、神の配慮の対象とされ神の律法の範疇にあった。彼らの食物を供給なさるにあたっても、神は、彼らにとって最善をお求めになった。神が荒野において彼らを養われたマナは、肉体的に、精神的に、また道徳的に力を促進する性質のものであった。…彼らの荒野の生活において数々の苦難があったにもかかわらず、彼らの部族の中に虚弱な者はなかった」(クリスチャン・ガイダンスp378)。「主はご自分の民に、もし彼らがご自分の律法を守り、特別な民となるのなら、すべての祝福がもたらされることをはっきりとお教えになった。神は、荒野でモーセを通して、健康は服従の報酬であることを明細に述べて、彼らに警告なさった。」(食物への勧告p375)

イスラエル人がカナンに着くまで荒野にいた40年の間、これが続きました。彼らは、毎朝マナを「おのおのその食べるところに従って」(出エジプト記16:18)集めました。次の日には神が自分たちの日ごとのパンを与えてくださると信頼して、彼らは自分たちの幕屋のうちにも、また宿営のうちにもパンを蓄えることをしませんでした。神の蔵に入れておくほうが、自分たちの蔵にあるよりも、確実で安全なのでした。そして、そこからの与えられる方がより甘く、より新鮮でした。ある者は、自分が隣人より賢く、またすぐれた管理者だと考えて、次の日にはないのではないかと案じて備えをしようとマナを蓄えておきました。しかし、これには虫がついて、なんの役にも立ちませんでした。貪欲な思いで疑い深くとっておいたものは、結局まったくの無駄になってしまいました。

「六日目には、彼らは二倍のパン、すなわちひとりに二オメルを集めた。そこで、会衆の長たちは皆きて、モーセに告げたが、モーセは彼らに言った、『主の語られたのはこうである、「あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と。」彼らはモーセの命じたように、それを朝まで保存したが、臭くならず、また虫もつかなかった。モーセは言った、『きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう』。」(出エジプト記16:22‐26)

ここで、第七日目の安息日のことが述べられています。この安息日は、シナイ山で律法が与えられる以前だけでなく、イスラエル人がエジプトから導き出される前、実にはじめから知られていたのでした。「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」(創世記2:3)聖なる奉仕や、またそれを目的とした聖なる安息のために、七日のうちに一日を他と区別してとっておくというこの制度は、神が人間をこの地上に創造されて以来ずっと続いてきたのであり、神の律法のふるい歴史と共に存在してきました。マナは一週間のうち六日間だけ降ってきて、六日目には二倍の量が降りました。安息日の準備以外のときに、一日分以上の量をとっておくなら、それには虫がついて実に不快なものになってしまうのでした。神は、彼らに七日目は休むようにとお定めになりましたが、彼らがそうすることによって、損失をこうむることがないように取り計らわれました。だれひとりとして、神に仕えることによって、損をすることは決してないのです。備えの日には、彼らは二日間のために十分な量を取りに出て、料理をするのでした。第七日目には、神はマナをお送りになりませんでした。ですから、彼らはそれを期待したり、そとに集めに出たりしてはならないのでした。このことは、私たちに安息日のために準備することを教えています。彼らが命令にそむいて、マナをとっておくときには、それは臭くなってしまいました。しかし、彼らが命令によってそれをとっておくときには、おいしくまた健康によいのでした。すべては神のみ言葉によってきよめられるのです。

神が荒野で民の食べ物となるようにとマナを供給されたとき、その記念をとっておかなくてはなりませんでした。「イスラエルの家はその物を名をマナと呼んだ。それはコエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。モーセは言った、『主の命じられることはこうである、「それを一オメルあなたがたの子孫のためにたくわえておきなさい。それはわたしが、あなたがたをエジプトの地から導き出した時、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らに見させるためである』と。」そしてモーセはアロンに言った『一つのつぼを取り、マナ一オメルをその中に入れ、それを主の前において、子孫のためにたくわえなさい』。そこ

主がモーセに命じられたように、アロンはそれをあかしの箱の前に置いてたくわえた。」(出エジプト記16:31‐34)人々が食べたパンは忘れられてはなりませんでした。神の奇跡と恵みは記憶にとどめておかれるのでした。「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)。そうです!神は彼らがご自分を信頼し、また日ごとのパンに満足するかどうかを試されたのです。このようにして、神は彼らがご自分に仕えるかどうか、彼らがどれほど感謝しているかどうかを試されたのでした。神がイスラエル人のために食料を備えられたとき、それは、彼らにご自分こそ彼らの神であられることを知らせるためでした。

神のみ言葉は、わたしたちの魂が養われるマナです。み言葉は、マナのように天から来て、わたしたちがこの地上の荒野に入る間、魂の霊的命を支え、満ち足らせます。み言葉に表されたキリストが魂にあてはめられ、恵みの富が用いられなくてはなりません。私たちは皆それぞれ自分のために集めなくてはなりません。一日の朝に、すなわち機会のある朝にあつめなくてはならないのです。もし、それを逃すなら、集めるのには遅すぎることになるかもしれません。マナは蓄えておいてはなりません。食べなくてはならないのです。キリストから受けてきた者は、信仰によって彼にあって生きなくてはなりません。恵みをいたずらに受けてはなりません。マナはすべての人に、各々に十分なだけあります。だれ一人として取りすぎることはありませんでした。同様に、キリストにあっては必要にして十分なだけあります。しかし、マナを食べた者は、また飢え、ついには死にました。また神は彼らの多くを喜ばれませんでした。しかるに、信仰によってキリストに養われる者は、決して飢えることがなく、もはや死ぬことがなく、神は永遠のあいだ、彼らをおおいに喜ばれるのです。熱心に聖霊の恵みを求めて、わたしたちのすべてのみ言葉の知識を、信仰と愛によって、自分の魂の霊的な栄養にかえましょう。

マナ

「マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。」(民数記11:7-8)。そしてその味は、「蜜を入れたせんべいのようであった。」(出エジプト記16:31)「イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた。」(出エジプト記16:35)「『イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた』。四十年の間、彼らはこの奇跡的な供給によって、神の絶えることのない守護とやさしい愛を毎日自覚させられた。詩篇記者の言葉に、神は『天の穀物を彼らに与えられた。人は天使のパンを食べた』と言われている(詩篇78:24‐25)。天使のパンとは、天使たちによって彼らに与えられた食物ということである。『天の穀物』によって養われた彼らは、神の約束が与えられているならば、あたかもカナンの肥沃な平野の波打つ穀物畑に囲まれているかのように、欠乏することはないということを毎日教えられた。」(人類のあけぼの 上巻p344)

今日一日のマナ(霊的および肉体的)

「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネ6:63)。今、このかたは、「味わい知れ」(詩篇34:8)と私たちを招いておられます。そして、食べて成長するようにと強く勧めておられます。「このかたの恵みの言葉は、信じる魂にとってマナである。神の尊いみ約束は、飢えかわく魂にとって食物である。私たちは、今日、『あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる』というみ約束を体験しなければならない(詩篇36:8)。」(原稿7巻p30)。「キリストは今日のうちに、明日の重荷を負うことを助けるとは約束されなかった。『わたしの恵みはあなたに対して十分である』が(コリント第二12:9)、しかし、荒野でマナが与えられたように、このかたの恵みは日ごとに、その日その日の必要のために与えられるのである。流浪生活を送っていたイスラエルの群集のように、私たちも、朝ごとに天からのパンをその日の糧として見出すことができるのである。」(神のむすこ娘たちp119)

「筋力が肉食によって依存すると考えるのは誤りである。体の組織は、肉を用いないほうがよりよく補給されるし、もっ活力にあふれた健康を享受することができる。果物、堅果類、野菜類と共に食す穀物が健康な血液を作り出すのに必要な栄養素をすべて含んでいる。」(食物への勧告p396)
「神が、今日ご自分の民にこれまでもまたこれからも与えつづけられる食物の問題に関する光は、イスラエルの子らにとってのマナと同じである。マナは天から降ってきて、人々はそれを集めるように命じられた。そして、それを食べられるように調理した。世界のさまざまな国々で、主の民に光が与えられるであろう。そして、それぞれの国にあった健康食が作られるのである。」(原稿1902-78)

マナが与えられたのは…

「愛する者よ。あなたの魂がいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。」(ヨハネ第三2)。「神がイスラエルの子らをエジプトから導き出されたとき、カナンの地で、彼らを純潔で幸福な、また健康的な民としてたてられるのがご目的であった。・・・神はマナを備えられたのと同じくらい容易に肉を与えることがおできになったのであるが、民の益のために制限が設けられた。彼らのうち多くの者がエジプトで慣れてしまっていた熱っぽい食事より、彼らの必要に適した食物を供給されるのがこのかたのご目的であった。ゆがめられた食欲は、人間にもともと与えられた食物、すなわち神がエデンでアダムとエバにお与えになった地上の果物を楽しむことができるように、もっと健康的な状態へ引き戻されなければならなかった。」(CTBHp118)
「イエスラエル人の教育は、生活のあらゆる習慣にまで及んでいた。彼らの福祉に関することはすべて神の懸念されるところとなり、神の律法の範囲に含まれていた。神は食物をお与えになることでさえ、人々の最高の幸福を念願された。神が荒野で民をお養いになったマナは、体力、知力、道徳力を増進させる性質の食物であった。多くの者が食物の制限に反抗し、かつて『われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に』と言って、そのころの生活にもどりたいとあこがれたときでさえも、彼らのために神の選択が賢明であったことが、反駁できないまでに証明された。荒野生活の困難にもかかわらず、彼らのどの部族にもだれひとりとして虚弱者はいなかった。」(教育p31‐32)。

自制のためのマナ

「すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。」(コリント第一9:25)。「思いの状態は体の健康、特に消化器官の健康と大いに関係している。概して、主はご自分の民が、砂漠で肉の食物をもって養われることはなかった。なぜなら、主はこの食物を用いることによって、病気と不従順が増し加えられることをご存知であったからである。性質を矯正し、思いのさらに高尚な力を活発に働かせるために、神は死んだ動物の食物を彼らのうちから取り除かれた。神は、天使の食物、すなわち天からのマナをお与えになった。」(原稿1989.38)「マナは、イスラエル人が、自分たちの性質を制する助けとなるようにと備えられた。『もしイスラエルが、エジプトにいる間に慣れしたしんだ食事を与えられてきたとしたら、今日この世があらわしているような、手に負えない精神を表していたことであろう。この時代の男女の食事には、主がイスラエルの子らには許されなかった多くのものが含まれている。今日、人類家族は、もし神がイスラエルの子らにエジプト人の食物を食べ、その習慣と慣習にならうことを許され

たなら、彼らがどのようになっていたかを、描写している。』」(バイブル・コメンタリ1巻p1102)

マナは聖霊の象徴

「あなたは良きみたまを賜わって彼らを教え、あなたのマナを常に彼らの口に与え、また水を彼らに与えて、かわきをとどめ」ました(ネヘミヤ9:20)。そして、「また彼らの求めによって、うずらを飛べきたらせ、天から、かてを豊かに彼らに与えられた。主が岩を開かれると、水がほとばしり出て、かわいた地に川のように流れた。」(詩篇105:40,41)「マナをお与えになったおかたが彼らの中に立っておられた。荒野のヘブル人を導き、天からのパンで彼らを日々養われたのはキリストご自身であった。この食物は天の真のパンの型であり、無限に満ち足りた神のみもとから流れ出て命を与えるみ霊は、真のマナである。『神のパンは、天から下って来て、この世に命を与えるものである』と、イエスは言われた(ヨハネ6:33)。」(各時代の希望中巻p132)

私たちは、神の御子により頼む信仰によって生きるべきである

「私たちは、御子が、御父を信じる信仰によって生きられたように、神の御子により頼む信仰によって生きるべきである。キリストは、『生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう』と言われた。兄弟よ、あなたは、これを実行しているだろうか。もう一度、次のみ言葉を読んでみましょう。『「天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」…弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これはひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか』(ヨハネ6:58‐62)。彼らは、人性の衣の下にある神の性質を見分けることができなかった。彼らは、神の御子がなさる働き神の性質をもっていることを悟ることができなかった。今日の働きにおいてもちょうど同様である。日常のことから神聖なことを見分けることのできない者が多くいる。なぜであろうか。それは、彼らが自分の魂を神から引き離してきたからである。神は私たちに尊いみ言葉を与えてこられた。私たちは、神のみ光が私たちにあらわれるまで、ひざまずいて、それを研究すべきである。私たちは、他の人々から与えずにはおけないメッセージを持っているのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1889.6.11)。「あなたの教会員はみな、毎朝毎夕、新鮮なマナを集めているであろうか。あなたは、神の悟りを探し求めているだろうか。」(教会の証5巻p486)

契約の箱の中に

「そこには金の香炉と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり」(ヘブル9:4英文訳)
「『供えの』パンは、聖所に入る者はだれでも見ることができました。しかし、マナは、至聖所にある契約の箱の中にしまわれていたため、信仰の目によってのみ見つめることができるのでした。パウロは、イスラエル人がしたように、すべてのクリスチャンが信仰によって『同じ霊の食物』(コリント第一10:3)を楽しむようにと熱心に勧めています。

安息日を覚えよ

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(出エジプト記20:8-11)
毎週毎週、マナはイスラエルに、安息日を覚えよ!と宣布していました。なぜなら、四十年間、週の六日は毎日マナがあらわれ、備えの日には、二倍の量の供給があったからです(出エジプト記16:22-29)。六日目のマナは、他の日のマナと違って、安息日の必要のために蓄えておくとき新鮮なまま保たれるのでした。マナの金曜日のメッセージを聞いてみましょう。忠実な者よ、聖なる時間のために、間に合うように準備しなさい。そしてそのとき、安息日の喜びが、救い主の保護の恵みと愛について歌うのでした。そして、このかたのみ約束は決して失望に終わることがありませんでした。なぜなら、このかたの六日間の備えは、従順な者の七日間の必要を支えたからです。「神は天からパンを降らせることによって、ご自分の民をどんなに深く心にかけ、愛しておられるかをあらわされました。『人は天使のパンを食べた』(詩篇78:25)。これは、彼らのために天使によって備えられた食べ物である。マナのついて三重の奇跡が行なわれた。すなわち、六日目には二倍の量が降り、七日目には降らなかった。そして、他の日には食することができないような状態になってしまったのに、安息日を通じて、新鮮なまま保たれた。これらは、安息日の神聖さを彼らに印象づけることを意図して行なわれたのであった。」(預言の霊1巻p226)このようにマナは週ごとに三つのことを教えました。備えの日には、

(1)来るべき安息日に備えて二倍の備えをするように、

(2)各家族が聖なる時間に十分なだけの食物を準備するように、また

(3)神の忠実な民が、このかたが自分たちを守る力を働かせ、とりわけ安息日に特別な祝福を与えてくださることを期待するよう訓練したのでした。

隠されているマナ(真のマナ)

「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう…」(黙示録2:17)。マナはどの時代のどの状態にも適したものでしたが、民が砂漠をさすらっていたほんの短い間、彼らを支えただけでした(ヨシュア5:12)。イスラエル人は食べましたが、結局死んだのでした。しかし、キリストは、「隠されているマナ」を食する者は決して死ぬことがないと約束しておられます!このかたは、年月を貫いて、なんとこころ弾ませる言葉をもって私たちを招いておられることでしょう。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハネ6:51)。「天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」(ヨハネ6:58)。

もし、忠実ならば…

マナは、神の旅人なる民がその目的地に到着するまで、彼らの必要のために備えつづけられました(ヨシュア5:12)。イエスは、聖霊を通じて、「世の終りまで」(マタイ28:20)人生の曲がりくねった道を行く弟子たちといつも共に歩み、その必要を満たしてくださると保証しておられます。私たちの御父の支えるという約束は、あなたの「パンは与えられ」「その水は絶えることがない」(イザヤ33:16)。私たちの救い主の保証が、私たちの絶えざる希望となるべきです。「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう…」(黙示録2:17)。その日には、勝利者は純銀の食器の備えられた食卓につきます。「命の木の実、マナ、あめんどう、いちじく、ざくろ、ぶどう、その他多くの果物をわたしは見た。わたしはイエスに、果物を食べさせてくださいと頼んだ。イエスは、『今はいけない。この国の果物を食べる者は、二度と地上には戻らない。しかし、あなたが忠実であるならばもうしばらくして、命の木の実を食べることも、泉の水を飲むこともできるだろう』と言われた。」(初代文集p70‐71)「なにに基づいて満ち満ちた豊かな神のみ約束を主張することができるだろう。私たちは、そのみ言葉の中に指示された条件を満たしたときにのみ、それらを主張することができる。…このかたは、ご自分の民に命の木からとって、また隠れたマナを食べる特権をお与えになった。」(レビュー・アンド・ヘラルド1889.12.17)