神がご自分の律法をシナイ山でお与えになったとき、このかたはご自身を、宇宙の最高権威者として、また同時に愛する贖い主としてあらわされました。
「主はシナイからこられ、セイルから彼らにむかってのぼられ、パランの山から光を放たれ、ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手からは彼らのために火のような律法が出た。まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、教えをうける。」(申命記33:2‐3英文訳)。このかたはまた、ご自分の民を愛する贖い主としてご自身をあらわされたのでした。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」(出エジプト記20:2)「シナイで与えられた律法は、愛の原則の言明であり、天の律法の地上への啓示であった。それは仲保者キリストの手で制定され、そのみ力を通して人間の心をこの原則に調和させることのおできになるキリストによって語られたのであった。」(祝福の山p57,58)

「神の律法は、神ご自身と同様に、神聖なものである。それは、神の意志の啓示であり、神の品性の写し、神の愛と知恵の表現である。造られたものの調和は、生物であれ、無生物であれ、すべてのものが創造主の律法に完全に一致することにかかっている。神は、生物のためだけでなく、自然のすべての営みを支配するために、法則をお定めになった。万物は、破ることのできない一定の法則の下にある。しかし、自然のすべてのものが、自然の法則に支配されているにもかかわらず、地上に住む万物の中で、人間だけは道徳律に従わなければならない。創造の最高のわざである人間に、神は、神の要求を認めて、その律法の義と慈愛と、そして、人間に対する律法の神聖な要求を理解する能力をお与えになった。人間には、ゆるがない服従が要求されているのである。」(人類のあけぼの 上巻p38)

「神の律法は、その性質そのものからして、不変のものである。それは、その制定者の意志と品性の啓示である。神は愛である。そして、神の律法は愛である。その二大原則は、神に対する愛と人間に対する愛である。『愛は律法を完成するものである』(ローマ13:10)。神の品性は、義と真理である。神の律法の性質もそうである。詩篇記者は言っている。『あなたのおきてはまことです。』『あなたのすべての戒めは正しい(義なるものです)』(詩篇119:142,172)。そして、使徒パウロは、『律法は聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである』と宣言している(ローマ7:12)。神の思いと意志の表現であるこのような律法は、その制定者と同様に永続的なものでなければならない。」(各時代の大争闘 下巻p194)

エデンでの律法

「神の律法は品性の標準である。それは、神ご自身のご品性を表現している。律法はエデンでアダムとエバに与えられた。…神は私たちの始祖に、神の律法に調和した純潔でまっすぐな品性をお与えになった。そして彼らが従順でありつづけたならば、彼らは、同じ品性を自分の子孫に伝えたはずであった。」(BEcho, 1895.7.29)

イスラエルに与えられた律法
「神の律法は、罪以外のなにかを破壊するものではない。律法が対立するのは人間の肉の罪深い習慣だけである。それはいにしえの世界の堕落した住民のようになることから人類を守るために与えられたのであった。律法は、従うならば、品性を純潔に保つ生活の規則となる。神がお与えになったとおりに律法を自分のものとする者は、罪を嘆く者ではなく、また道徳的に病んでいる病気の者でもない。…神はイスラエルがご自分に忠実であったならば、彼らを義のうちに設立なさったはずであった。」

終わりの時代の神の律法
「神はこの時代に、ちょうどエデンで聖なる夫婦に要求されたこと、すなわちご自分の要求に対する完全な服従を求めておられる。このかたの律法はいつの時代も同じである。旧約時代に示された義の大いなる標準が、新約の時代に下げられることはない。福音の働きは神の聖なる律法の要求を弱めることではなく、人間をこの規則が守れるところにまで引き上げることなのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1886.10.5)
「神の律法は、終りの時代、すなわち神の『救いの来るのは近く』、そしてこのかたの『義

のあらわれるのが近い』時に、ことさら綿密に守られるべきである。…神だけが、道徳的な義務の唯一の源であり、人類の各世代を通じて、神の律法への従順が子供たちにまた子供の子供たちにと教えられなくてはならない。」(Becho1895.7.29)。
「サタンが多くの代理人を通して、拘束力のある神の律法の要求に対して男女の目をくらまそうと努力している世界の今の時代、多くの者を『われわれの神の命令におのの』かせることのできる人々が必要とされている(エズラ10:3)。罪を犯す者たちに偉大な律法制定者を指し示し、「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ(魂を改心させ)」ることを彼らに教える真の改革者が必要とされている(詩篇19:7)。聖書に精通している者、そのすべての言葉とすべての行動がエホバの定めを高める人々、信仰を強めるために努力する人々が必要なのである。」(彼を掲げよp165)

人間の法律は、行動にのみ焦点を当てています。しかし、十誡(律法)は、「霊的」なものであって(ローマ7:14)、「限りなく広い」ものであり(詩篇119:96)、私たちの嫉妬、ねたみ、肉欲、また野心など、最も奥底にある思想や願望、また感情にまでふれるものであります。山上の垂訓で、イエスは、罪が心から始まるものであることを明らかにし、この律法の霊的な特質を強調なさいました(マタイ5:21‐28参照)。「しかし、神の律法には神秘的なところは何もない。すべての者は律法が具体的に表現する偉大な真理を理解することができる。最も弱い知力を持った者もこれらの規則をつかむことができる。最も無知な者も生活を統制し、神聖な標準に従って品性を形づくることができるのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻p217)

「拘束力のある律法の要求を提示する際に、多くの者がキリストの無限の愛を表現するのに失敗してきた。…イエスに対する愛、そして罪人に対するイエスの愛が、福音を説教するよう委任されてきた者たちの宗教経験から欠落してきたのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻p371)「十誡の律法は、禁じるものとしての側面からよりも、恵みの側面から見られなければならない。律法が禁じることは、服従するなら確かな幸福の保証である。キリストにあって受け入れられるとき、それは私たちのうちに、永遠にわたって喜びをもたらす品性の純潔を生じさせる。服従する者にとって、それは防壁なのである。私たちは律法の中に、人間に変わることのない義の原則を明らかにされることによって、彼らを罪の結果である悪から防ぎ守ろうとなさる神の恵み深さを見る。」(セレクテッド・メッセージ1巻p235)

「サタンは神の愛の律法を利己主義の律法であるという。彼はわれわれがその戒めに従うことは不可能だと宣言する。人類の始祖アダムとエバが堕落してあらゆる災いが生じたことを、彼は創造主の責任にし、人々に神が罪と苦悩と死の張本人であるかのように考えさせる。イエスはこの欺瞞を暴露されるのであった。イエスは、われわれ人間の一人として服従の模範を示されるのであった。…『わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります』と、主は言われる(詩篇40:8)。…イエスの一生は、われわれもまた神の律法に従うことができることを証明している。」(各時代の希望 上巻p9)

「主の律法は完全であり、したがって変ることがないから、罪人は自分でその要求の水準に達することは不可能である。これがイエスが私たちの贖い主としておいでになった理由であった。神のご性質にあずかる者とすることによって、人を天の律法の原則に調和させるのがイエスの使命であった。私たちが罪を捨て、キリストを救い主として受け入れるときに、律法は高められる。」(祝福の山p62)

神の贖いの愛を感謝する者にとって、このかたの律法は喜びとなります。神の律法は、彼らの魂にとって励ましとなるのです。「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います」(詩篇119:97)。「わたしは金よりも、純金よりもまさってあなたの戒めを愛します」(詩篇119:127)。「悩みと苦しみがわたしに臨」んだときでさえ、「しかしあなたの戒めはわたしの喜びです」(詩篇119:143)。神を愛する者にとって、「戒めはむずかしいものではない」(ヨハネ第一5:3)。

イエスは、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)。「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ15:10)。「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言とが、かかっている。」(マタイ22:37‐40)

十誡(人類のあけぼの上巻p356‐361)

第一条

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」
永遠に自存し、創造されたおかたでなく、自らすべてのものの根源であって維持者であられるエホバだけが、最高の尊敬と礼拝をお受けになる資格がある。人間は、主以外の何ものをも第一に愛して奉仕することを禁じられている。神に対するわれわれの愛を減少させたり、神にささげるべき奉仕を妨げるようなものを心にいだくときに、われわれはそれを自分の神としているのである。

第二条

「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」
第二条は、像や類似した形のものによって真の神を礼拝することを禁じている。多くの異教国民は、自分たちの像は神を礼拝するための象徴にすぎないと主張した。しかし、神はこのような礼拝は罪であると宣言された。物体をもって永遠のおかたを象徴しようと試みるときに、神に関する人間の観念は低下するのである。人の心は主の無限の完全さから離れるときに、創造主よりも被造物のほうへ引かれるのである。そして神についての観念が低下するにつれて、人間は堕落するのである。
「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」。人と神との密接で聖なる関係が結婚の象徴によって表されている。偶像礼拝は霊的姦淫であるから、これに対する神の不快がねたみと呼ばれていることはふさわしい。
「わたしを憎む者には、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし」。子供たちが親の悪行の影響を受けることは避けられないが、その罪にあずからないかぎり、親の不義のために罰せられることはない。しかし、子供はたいてい親の歩いた道を歩くものである。遺伝と手本によって、むすこたちは父親の罪にあずかる者となる。肉体的病気と退化ばかりでなく、悪い傾向、ゆがめられた食欲、堕落した品行が、父から子へ、また、三代四代と受け継がれる。この恐るべき事実は、人間が罪の道に歩くのを抑制する厳粛な力とならねばならない。
「わたしを愛し、わたしのいましめを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」。第二条の偽りの神がみを礼拝することを禁止することの中には、真の神を礼拝するようにとの命令が暗に含まれている。神を憎む者に対して怒りが三、四代に及ぶと予告されているのに対して、神への奉仕に忠実な者に対しては、千代までのあわれみが約束されている。

第三条

「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」。
この戒めは、偽証や日常のののしりの言葉を禁じているばかりでなく、その恐るべき意味も考えないで、神の御名を軽々しく、あるいは不注意に使うことを禁じている。日常の会話において、神について無思慮に発言することや、ささいなことを神に訴えることや、神の御名を、幾度も無思慮に繰り返すことなどは、神のみ栄えを汚すことになる。「そのみ名は聖にして、おそれおおい」(詩篇111:9)。神の尊いご品性についての観念が心に印象づけられるように、だれもが、神の尊厳と純潔と神聖さとを瞑想すべきである。そして、神の清いみ名は、うやうやしく厳粛に言わなければならない。

第四条

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべての者をつくって、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」
安息日は、新しい制度として取り入れられたものではなく、創造のときに制定されたものである。それは創造主のみわざの記念としておぼえられ、守られるのである。安息日は、神を天地の創造者として指し示すことによって、真の神とすべての偽りの神とを区別している。七日目を守る者は、だれでも、その行為によって、彼らが主の礼拝者であることを表示するのである。このように、安息日は、この地上において神に仕える者があるかぎり、神に対する人間の忠誠のしるしである。第四条は、十誡の中で立法者の名と称号が二つとも記されている唯一の戒めである。それは律法がだれの権威によって授けられたかを示している唯一の戒めである。このように第四条は、律法の確実性と拘束力の証拠としてそれに押された神の印を含んでいる。
神は、人間に、働くために六日をお与えになり、彼ら自身の働きがその六日の働き日になされるように要求される。病人や苦しんでいる者はいつでも世話しなければならないので、必要とあわれみの行為は安息日にも許されるが,不必要な働きは厳格にこれを避けなければならない。「安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず」(イザヤ58:13)。禁止はこれだけではない。「むなしい言葉を語らない」と預言者イザヤは言っている。安息日に、商売の話をしたり、商売の計画を立てたりする者は、神から実際に商売の取引に従事したのと同じにみなされる。安息日を清く守るためには、世俗的な事柄を心に思い巡らすことさえしてはならない。この戒めには、われわれの門のうちにいるすべての者が含まれている。家の中の同居人は、この清い日には、みんなが一つになって、心からの奉仕によって、神をあがめねばならない。

第五条

「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」
親は、他のだれも受けることのできない愛情と尊敬を受ける資格がある。神は、お与えになった子どもたちの責任を親に負わせられた。そして、子供たちが幼いころは、親が子供たちに対して、神の立場に立つことを神ご自身が定められた。親の正当な権威を拒むものは、神の権威を拒んでいる。第五条は、子供たちが親を尊敬し、親に従順に従うことを要求しているだけでなく、親を愛し、いたわり、重荷を軽くし、その評判を守り、老齢の彼らを助け、慰めることを要求している。それは、また、牧師、統治者そのほか神が権威をお委ねになったすべての人を尊敬するように命じている。
「これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている」と使徒パウロは言っている(エペソ6:2)。まもなくカナンに入ることを予期していたイスラエルにとって、これは、従順な者にとって、その美しい国で長く生活する保証であった。しかしこれにはもっと広い意味と、神のすべてのイスラエルが含まれていて、地が罪ののろいから解放されたときの永遠の生活が約束されている。

第六条

「あなたは殺してはならない」
命を縮めるすべての不正行為、憎しみと復讐の精神、また、他を傷つける行為を行わせたり、他が傷つくことを望んだりさせる悪感情を心にいだくこと、(なぜなら、すべて兄弟を憎む者は人殺しだからである)利己的精神をいだいて、貧者や苦しむ者を顧みないこと、健康を害するすべての放縦、また、不必要な消耗、過労に陥ることは、程度の差こそあっても、すべて六条の違反である。

第七条

「あなたは姦淫してはならない」
この戒めは、不純な行為だけでなく、好色的な思いや欲望、あるいは、そうしたものを刺激する行為を禁止している。外にあらわれた生活だけでなく、ひそかな意図や心の感情においても、純潔が要求される。キリストは神の律法について深遠な義務をお教えになり、邪悪な思いや目つきは、不法な行為と全く同様に罪であると言われた。

第八条

「あなたは盗んではならない」
この禁止には、公私の罪が含まれている。第八条は、人間をさらったり、奴隷売買をしたりすることを有罪とし、征服のための戦争を禁じている。それは窃盗と強盗を有罪としている。それは日常生活のどんな小さな事柄にも厳密な正直さを要求している。それは商売における不正を禁じ、正当な借金や賃金の支払いを要求している。それは、他人の無知、弱点、不幸につけこんで私服をこやす行為は、すべて天の書に詐欺として記録されることを宣言している。

第九条

「あなたは隣人について、偽証してはならない」
どんなことにおいても、偽りを言うこと、隣人を欺こうとするすべての試みや意図が、ここに含まれている。欺こうとする意図が虚偽となるのである。目つき、手の動き、顔の表情によって、言葉と同じように効果的に嘘が語られるかもしれない。わざと誇張されたしゃべりかた、間違った印象あるいは誇張された印象を伝えるように計画された暗示やほのめかし、事実であっても誤解を招くような言い方などはすべて虚偽である。この戒めは、虚偽や悪意のある憶測や中傷、告げ口などによって隣人の評判を傷つける行為をすべて禁じている。事実を故意に隠して、その結果他人に害を及ぼすことは、第九条の違反である。

第十条

「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」
第十条は、あらゆる罪の根絶をはかるもので、罪の行為が生じる根源の利己的欲望を禁じている。神の律法にしたがって、他人の所有に対してよこしまな欲望をいだかない者は、同胞に対して悪い行為を犯すことはしないであろう。

かみなりと炎の中で、驚くべき大立法者の権力と威厳のあらわれと共に語られた十誡の清い条文はこのようなものであった。神は、人々がその光景をいつまでも忘れることがないように、また、彼らが律法の創始者、すなわち天地の創造主に対する深い尊敬心をいだくようになるために、律法の宣布に力と栄光のあらわれが伴うようにされた。神は、また、すべての人々に律法の神聖さ、重要性、永遠性を示そうとされた。」

「イエスは『天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである』と仰せになった(マタイ5:18)。キリストは、自ら律法に従うことによって、律法の不変性をあかしし、キリストの恵みによって、アダムのむすこ、娘はみな完全にそれに従うことができることを証明された。キリストは山の上で、すべてのこと――人類に関わるすべてのこと、贖いの計画に関するすべてのこと――が全うされるまでは、律法の最も小さい部分もすたれることはないと言明なさった。イエスは、律法が廃棄されるとはお教えにならない。そして、世界の終末に目を向けて、そのときが来るまで律法はその権威を保ちつづけることを保証しておられる。それだから、だれも律法を廃することがイエスの使命であったと考えることはできないのである。天地が存続するかぎり、神の律法の聖なる原則は残る。神の義は『山のごとく』存続し、それは祝福の源となって、地をうるおす流れを送り出すのである(詩篇36:6)。」(祝福の山p61,62)「十誡は、全人類に適用されるのであって、すべての人と教えと統治のために与えられたのである。十誡は、短くて、簡潔で、権威があって、神と人とに対する人間の義務を網羅し、その全部は愛という根本的な原則に基づいている。」(人類のあけぼの上巻p355)