「それから、わたしは一人の聖者の語っているのを聞いた。また一人の聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、『常供の燔祭と、荒らすことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか』と。彼は言った、『二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する』。」(ダニエル8:13,14)

「聖所の清めとは何であろうか。旧約聖書に述べられている地上の聖所の奉仕に関係してそのような務めがあった。しかし、天において何か清められねばならないものがあるのであろうか。ヘブル9章では、地上と天の聖所の清めがはっきりと教えられている。…型においても本体の奉仕においても、清めは血によって成し遂げられねばならない。前者は動物の血によって、そして後者はキリストの血によって成し遂げられるのである。清めは肉体的な汚れを取り除くことではない。なぜなら、それは血によって成し遂げられねばならないからである。であるから、それは罪からの清めでなければならない。しかし、それでは、天においても地においても、罪は聖所とどういう関係があるのであろうか。」(信仰によって私は生きる7月19日)

「預言に指し示されている清めについて、もっと知ろうとすれば、天の聖所の奉仕を理解しなけばならなかった。それには地上の聖所の奉仕について知る以外に道はなかった。なぜなら、パウロは、地上の聖所の祭司たちを『天にある聖所のひな型と影とに仕えている者』と言明しているからだ(ヘブル8:5)。」(生き残る人々p425)「そして、地上の聖所の務めにおいて、型として行われたことが、天の聖所の務めにおいて、現実に行われるのである。」(各時代の大争闘下巻p135)

地上の聖所と天の聖所のうち、どの聖所のことを言っているのでしょうか?ダニエル8:14にある聖所は、天の聖所のことを述べているにちがいありません。なぜなら、1844年には、地上の聖所はすでに存在していなかったからです。1800年ものあいだ荒らされていたのでした。キリストにご自分のものだと認められずに見捨てられ(マタイ23:37-8)、神ご自身によって神聖さを奪われて内なる幕は超自然的に裂かれ(マタイ27:51)、エルサレムにあった宮はついに、ローマ軍によってAD70年に破壊されました。そして、それ以来二度と再建されることはなかったのでした。

この清めの時について、聖書はこれを明確に、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」と述べています(ダニエル8:14)。「ここまで、預言に指示されたことはみな、驚くばかりに成就した。そし70週が紀元前457年に始まり、紀元34年に終ることが、疑いの余地なく確定した。この年代から2300日の終りを見出すことは、難しいことではない。70週、すなわち490日が2300日から切り取られると、あとに1810日が残る。490日が終った後で、1810日もまた成就するはずであった。紀元34年から1810年たてば、1844年になる。この大いなる預言の期間が終ったところで、『聖所は清められる』と神の天使はあかししたのである。」(各時代の大争闘 下巻p15,16)「一年に一度、大贖罪の日に、祭司は聖所の清めのために、至聖所に入った。そこで行われた働きは、一年を通じて行われた奉仕を完成させるのであった。」(信仰によって私は生きる7月11日)

そして聖所の清めに関して答えを出すためには、聖所の「汚れ」について理解しなければなりません。私たちは二つの方法で考察することができます。
(a)ダニエル8章の直接的な文脈では、汚れは明らかに小さい角の偽りの礼拝制度やまた、その権力の悪用や偽造によって引き起こされたものでした。これらが、天の聖所の奉仕と、キリストの人間の唯一の仲保者としての救いの働きを曇らせ、あいまいなものにしたのでした。
(b)聖書全体のより広い文脈では、天の聖所は、罪が落とした長く暗い影によって汚されています。ですから、天の聖所自体がこの汚れから「清め」られる必要があります。罪はルシファーが堕落したときに天で始まりましたから、その悲劇的な反逆の影響力は彼が最終的に滅ぼされるまで残っています。さらに、贖いの計画において、アダムの堕落以来、すべての告白した罪が移されて、天の聖所の記録の書に記されてきたのです。

天の聖所はどのようにして「清められ」るのか?

(a)地上での清めの働き: これは天でのキリストの仲保に関する真理を再発見し、宣布する忠実な改革者たちによって成し遂げられます。この聖書の真理を説明し、擁護するという行為そのものによって、これらの改革者たちは小さい角のによる偽の仲保を暴き、それを影響力を帳消しにする働きを開始するのです。
(b)天での清めの働き: このことは天の「大贖罪の日」の開始によって成し遂げられます。このとき、キリストは二つの局面を持つご自分の奉仕のうち、最終的なさばきの働きを始められました。そのときには、天の書が開かれ、調査され(ダニエル7:10)、そして神の子らが告白した罪が天の記録から除去されるのです。

「むかし人々の罪が、罪祭の血によって象徴的に地上の聖所に移されたように、私たちの罪も実際的にキリストの血によって天に移されるのである。そして地上における型の清めでは、聖所を汚してきた罪を取り除くことによって成し遂げられましたが、天の聖所の実際の清めも、そこに記録された罪を取り除くこと、すなわち罪の除去によって成し遂げられるのである。このために、だれが罪の悔い改めとキリストを信じる信仰によって、このかたの贖罪の恩恵に浴する資格があるかを決定するために記録の書を調査する必要が出てくる。」(信仰によって私は生きる7月19日)

それでは私たちにとって、個人的に1844年という年は何を意味するのでしょうか?それは私たちが人間歴史において、最も厳粛で大切な時代に入ったということです。天の「大贖罪の日」が到来しました。神のさばきの時が実際に始まったのです。イエスはいま罪人のために、ご自分の最終的な奉仕をなしておられます。地上に生きている男女一人一人の運命を左右する決定が下されつつあるのです。まもなく、人類の恩恵期間を閉じる布告が出されます。「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ。」(黙示録22:11)。

私たちは、この運命が決定される時にそなえて準備できているでしょうか?私たちは自分の心を探り、罪を告白してきたでしょうか?各自が完全な清めのために神の供えを受け入れてきたでしょうか?私たちは自分の罪を裁判の「前に」送らなくてはなりません(テモテ第一5:24英文訳)。私たちは一瞬一瞬を「キリストのうちにとどまって」いなければなりません(ヨハネ第一2:28)。そうすれば、最終的な決定の時が私たち一人一人に臨むとき、私たちはパウロと共に、「キリストのうちに自分を見いだす」のです(ピリピ3:9)。

「キリストが聖所を清めておられる間に、地上の礼拝者たちは、注意深く自分たちの生活を省みて、自分たちの品性を義の標準と照らし合わせてみるべきである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1890.4.8)。「天で調査審判が行われ、悔い改めた罪人の罪が聖所から除かれているその間に、地上の神の民の間では、清めの特別な働き、すなわち罪の除去が行われなければならない。」(各時代の大争闘 下巻p141)「私たちはこの働きにおいてこのかたと共にいて、自分たちの魂の宮をすべての不義から清めているべきである。それは、私たちの名が小羊の命の書に記され、慰めの時(refreshing:回復の意)が主の御前からきたときに、私たちの罪が除去されるためである。それは人間にかつて与えられた中で最も厳粛な働きである。」(説教と訓話1巻p59)

聖所の清め

「イスラエルの人々の汚れと、そのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪のゆえに、聖所のためにあがないをしなければならない。また彼らの汚れのうちに、彼らと共にある会見の幕屋のためにも、そのようにしなければならない。」「この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。」(レビ記16:16,30)。「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。」(ダニエル8:14)。「年に一度、大贖罪の日に、祭司は聖所の清めのために至聖所に入った。そこで果たされる務めが、年ごとの務めを完了した。」(人類のあけぼの 上巻p419)。「地上の聖所の清めたのために、祭司が、一年に一度至聖所に入ったように、イエスは、ダニエル書8章の2300日の終り、すなわち、1844年に、天の至聖所に入り、彼の仲保の働きによって恵みにあずかるすべての者のために最後のあがないをなし、こうして、聖所をお清めになるのであった。」(初代文集p413)

預言に啓示された問題の原因

「その角の一つから、一つの小さい角が出て、…はなはだしく大きくなり、天の衆群に及ぶまでに大きくなり、星の衆群のうちの数個を地に投げ下して、これを踏みつけ、またみずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。…また真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。」(ダニエル8:9-12)
「見ていると、その中に、また一つの小さい角が出てきたが、…この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった。」「この角は聖徒と戦って、彼らに勝ったが、」「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。」(ダニエル7:8,21,25)。「ダニエルは、小さい角、すなわち法王制について、次のように言っている、『彼はまた時と律法とを変えようと望む』(ダニエル7:25)。そして、パウロは、この同じ権力を、神よりも自分を高める『不法の者』と呼んだ。一つの預言は他の預言を補足する。」(各時代の大争闘 下巻p166)

「常供の燔祭と、荒らすことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか。」(ダニエル8:13)。「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」(黙示録6:10)。「『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』というやもめの祈りは、神の子らの祈りを代表している。サタンこそ、彼らを訴える大敵である。サタンは『われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者』である(黙示録12:10)。サタンは、絶えず神の民を偽って訴え、欺き滅ぼそうとしている。キリストがこの譬の中で弟子たちに祈るように教えられたのは、サタンと彼の手下の勢力から救われるためである。」(キリストの実物教訓p147)。「では、私たちは、神の聖なる律法が足の下に踏みつけられているのに、沈黙を守って神をはずかしめるのであろうか。」(教会への証5巻p716)

この問題に答えるのはだれか?
「それから、わたしは一人の聖者の語っているのを聞いた。また一人の聖者があって、その語っている聖者(palmowniy パルモニー:Wonderful Numberer 霊妙な審判者)にむかって言った、『常供の燔祭と、荒らすことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか』と。彼はわたしに言った、『二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する』。」(ダニエル8:13,14英文訳)「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」「日の老いたる者がきて、いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。」(ダニエル7:13,22)。「イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」(ミカ5:2)。「ダニエル書8:14に提示されているキリストがわれわれの大祭司として、聖所を清めるために至聖

所に来られるということとダニエル書7:13に提示されている、人の子が日の老いたる者のもとに来るということ…は同じ出来事の描写である。」(各時代の大争闘 下巻p142)

なぜ1844年なのか?

「彼は言った、『二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する』。」(ダニエル8:14)。「モーセの律法において、聖所の清め、すなわち、大いなる贖罪の日は、ユダヤ歴の7月10日に行われた(レビ記16:29-34)。その日に、大祭司は、全イスラエル人の罪の贖いをなし、彼らの罪を聖所から除き、出てきて、民を祝福した。そのように、われわれの大祭司キリストが現れて、罪と罪人を滅ぼし、地を清め、待望していた神の民に永遠の生命を与えるものと、人々は信じた。聖所の清めの時である大いなる贖罪の日の7月10日は、1844年の10月22日にあた[る]。」(各時代の大争闘 下巻p106)
「2300日は、紀元前457年の秋に、エルサレムを建て直せというアルタシャスタの命令が実施された時に始まることになっていた。これを起算点にすれば、ダニエル書9:25-27にある、この期間についての説明の中で預言されたすべての事件の適用が、完全に調和する。69週、すなわち、2300年の最初の483年がたつと、油を注がれた者、メシヤが現れる。そして、キリストは、紀元27年バプテスマを受け聖霊の油を注がれて、この預言は正確に成就した。70週めの半ばにメシヤは絶たれるのであった。キリストは、バプテスマから3年半の後、紀元31年春に、十字架につけられた。70週、すなわち490年は、特にユダヤ人に関わるものであった。この期間の終了後、ユダヤ人は、キリストの弟子たちを迫害することによって、キリストを決定的に拒否し、使徒たちは、紀元34年、異邦人へと向かった。こうして2300年の最初の490年が終わり、あと1810年が残る。紀元34年から1810年たつと、1844年である。『そして聖所は清められてその正しい状態に復する』と天使は言った。これまで預言に指定されていたことは、みな、定められた時に、間違いなく成就した。」(各時代の大争闘 下巻p120,121)

私たちが生きている時代

「私たちは本体の大贖罪の日に生存しており、私たちの大祭司は天の聖所の至聖所におられ、ご自分の民のために血をもって嘆願しておられる。カルバリーでの力強い偉業は、私たちのだれにとっても、古めかしい忘れられた話となるべきではない。」(レビュー・アンド・ヘラルド1888.6.26)。「われわれは世界歴史の最も厳粛な時代に生存している。地上のおびただしい数の人々の運命が、決定されようとしている。われわれ自身の将来の幸福も、他の魂の救いも、今われわれが歩いている道にかかっている。われわれは真理のみ霊によって導かれる必要がある。キリストに従う者はみな、『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と熱心にたずねるべきである。われわれは祈りと断食をもって主の前にへりくだり、主のみ言葉について、特にさばきの光景について瞑想する必要がある。われわれは今、神のことについて、深い、生きた経験を求めなければならない。一刻も無駄にはできない。われわれの周囲には重大な事件が起こって[いる]。」(各時代の大争闘 下巻p368,369)

清め—取り除くこと、また除去

「それは主のみ前から慰めの時がくるとき、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」(使徒行伝3:19英文訳)。「古代においては、民の罪は罪祭の血によって地上の聖所に象徴的に移されたが、そのようにわれわれの罪はキリストの血によって、事実上、天の聖所に移されているのである。罪を移されて、汚れた地上の聖所からその罪を取り除くことによって、象徴的な清めが成就されたように、天の聖所においても、そこに記録されている罪をとり除くすなわち消し去ることによって、事実上の清めが成就される。そのためには、だれが罪を悔い改め、キリストを信ずることによって贖いの恩恵を受ける資格があるかを決定するために、記録の書を調べることが必要なのである。聖所の清めには、したがって調査審判の働きが含まれる。」(生き残る人々p425)。「この清めは、型としての儀式においても実際の儀式においても血によって成し遂げられなければならない。前者は、動物の血によって行われ、後者は、キリストの血によって行われる。パウロは、なぜこの清めが血によって行われねばならないかということの理由として、血を流すことなしには、罪のゆるしがないからであると述べている。ゆるし、すなわち罪の除去という働きが、成し遂げられなければならない。」(各時代の大争闘 下巻p131)

わたしの罪は除去されるだろうか?

「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。」(イザヤ43:25)。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。」(イザヤ44:22)。「私たちは大贖罪の本体の日に生存している。イエスはいま天の聖所におられ、ご自分の民の罪をあがなっておられる。そして死んだ義人のさばきはすでに40年近く行われてきた。私たちは、どれほど早く生きた者の調査が法廷で開始するのかはわからない。しかし、私たちは地上歴史の終末場面に生存していることは知っている。まさに永遠の世界との境界線にいるかのように立っている。私たち一人一人が自分は天の法廷での調査に耐え得るかとたずねるのは重要なことである。わたしの罪は除去されるだろうか。わたしは品性に欠点があるだろうか。そして世の習慣や考えによってこれらの欠点に対してあまりにも盲目になり、罪が本来の姿どおり、神にとってはなはだしく不快なものとして自分の目に映らないということはないだろうか。…型の贖罪の日に、すべての人は神のみ前に自分の魂を悩ませなければならなかった。他人の魂を悩ませるのではなかった。それは神と彼自身の魂の間の働きであった。これと同じ自己吟味とへりくだりの働きが、いま私たち一人一人に要求されている。だから、わたしは永遠のために徹底した働きをなすようあなたに懇願する。…私たちは自分の霊的前進のために最も望ましい交わりを選択するべきである。そして私たちの手に届くすべての助けを自分のものとすべきである。なぜなら、サタンは私たちの天へ向かう行程を可能な限り困難なものにするために、多くの障害物をおくからである。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1884.5.29)

調査の働き

「王は客を調べようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て」(マタイ22:11英語訳)。「聖所の清めには、調査の働き、すなわち審判の働きが含まれている。この働きは、キリストがご自分の民を贖うために来られるのに先だって行われなければならない。なぜなら、このかたが来られるときには、それぞれのしわざに応じて報われるために、ご自分の報いを携えてこられるからである。」(信仰によって私は生きる7月20日)「こうして、王が婚宴の客を吟味したことは、審判のみわざを表している。福音の婚宴に集まる客は、神に仕えることを表明する者、その名が命の書に書かれている者である。しかしクリスチャンであると告白する者がすべて本当の弟子なのではない。最後の報酬が与えられる前に、だれが義人の嗣業にあずかるにふさわしいかが決定されなければならない。この決定はキリストが天の雲に乗って再臨なさる以前に行われなければならない。キリストが来られるときには、報いを携えてきて、『それぞれのしわざに応じて報い』られるからである(黙示録22:12)。とすると、主の来臨の前にすべての人のわざがどんなものであるかがさばかれ、キリストの弟子の一人一人はその行為にしたがって報いが与えられるのである。調査審判が天の法定で行われるのは、人がまだ地上に住んでいるときにおいてである。キリストの弟子であることを表明するすべての者の生活が、神の前で調べられる。すべての者が天の書物の記録に従って吟味され、その行為によって一人一人の運命が永遠に決定される。」(キリストの実物教訓p289,290)

裁判の「前に」

「ある人の罪は先に出され、前もって裁判に送られるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。…良いわざも前に明らかになり」(テモテ第一5:24,25英文訳)。「ある人の罪は先に出され、それらを悔悟のうちに告白して捨て去り、前もって裁判に送られる。これらの人々の名の向かい側にゆるしが記入される。しかし、悔い改めと告白によって捨て去られていない他の人たちの罪はあとになってわかってくる。これらの罪は天の書において彼らに不利な記録となるのである。」(SDAバイブル・コメンタリ[E.G.Whiteコメント]7巻p916)。「もしあなたの名が命の書に記されているなら、あなたにとって何の心配もない。あなたの過ちを告白し、それらを捨てることを切に求めて準備しなさい。そうすれば、あなたの間違いと罪が前もって裁判に送られ、除去されるのである。」(信仰によって私は生きる7月23日)「今は私たちが自分の罪を告白し、捨てる時である。それは、それらの罪が前もって裁判に送られ、除去されるためである。今は、『肉と霊とのいっさいの汚れから自分を清め、神をおそれて全く清くな』るべき時である。この働きを遅らせるのは危険である。…この時代の神の民の防備は何であろうか。それは天との生きたつながりである。」(HSp155)
「義人は、救いを求めて熱心に苦しみの叫びをあげることをやめない。彼らは何一つこれといった罪を思い出すことができない。しかし、自分たちの全生涯に、彼らはほとんど善を見出すことができない。彼らの罪はすでに裁判にかけられ、ゆるしが記されていた。彼らの罪は忘れの地に運び去られて、彼らはそれらを思い出すことができないのである。」(預言の霊1巻p123)

私たちの準備

「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12)。「主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)。「民として、私たちは預言を熱心に学ぶ生徒であるべきである。私たちは、ダニエルとヨハネの幻で明らかにされた聖所の主題に関して聡い者となるまで休むべきではない。」(伝道p222,223)「今キリストは天の聖所におられる。そこで何をなさっているのであろうか。、私たちのために贖罪をなし、民の罪から聖所を清めておられる。であるから、私たちは信仰によって、このかたと共に聖所に入らなければならない。私たちは自分たちの魂の聖所においてこの働きを始めなくてはならない。私たちはあらゆる汚れから自分自身を清めなければならない。」(1888原稿p127)