「イエスは彼女に言われた、『…わたしの兄弟たちの所に行って、「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」と、彼らに伝えなさい』」(ヨハネ20:17)。「このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し」ておられる(ヘブル8:1)。
「全天は救い主を天の宮廷に歓迎しようと待っていた。キリストは、のぼって行かれるとき先頭に立たれ、主の復活のときに解放された多くのとりこが続いた。天の軍勢は、讃美と歓呼の叫びと天の歌をもって、喜びの行列につきそった。…そのとき神の都の門が開け放たれ、天使の群れは、歓喜の音楽でわきたつ中を、門を通りすぎる。…彼は天父の前に出られる。主はご自分の傷ついた頭と、刺し通されたわき腹と、傷ついた足とを指さし、釘あとのついている両手を挙げられる。…父よ、すべてが終わりました。わが神よ、わたしはあなたのみこころをなしました。わたしはあがないのわざを完結しました。もしあなたの正義が満足させられましたならば、『あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい』(ヨハネ17:24)。…われわれのために主はのぼり、われわれのために主は生きておられる。『そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである』(ヘブル7:25)。」(各時代の希望下巻p384-387)

「『見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない』(ダニエル7:13,14)。ここに描かれているキリストの来臨は、キリストが地上に再臨されることではない。キリストは、天において日の老いたる者のもとに来られるのであって、それは、彼の仲保者としての働きが終わるときに与えられる『主権と光栄と国』とをお受けになるためである。2300日の終りである1844年に起こると預言されたのは、この来臨のことであって、キリストが地上に再臨されることではなかった。われわれの大祭司は、天使たちを従えて、至聖所に入り、神のみ前で、人類のための彼の最後の務めをなさる。それは、調査審判の働きであり、贖罪の恵みにあずかる資格があることを示したすべての人のために贖いをなさることである。象徴的儀式においては、告白と悔い改めによって神の前に出て、そのつみが罪祭の血によって、聖所に移された者だけが、贖罪の日の儀式にあずかることができた。そのように、最終的な贖罪と調査審判の大いなる日に、審査されるのは、神の民と称する人々だけである。」(各時代の大争闘 下巻p211)

「審判において、記録の書が開かれるときに、イエスを信じたすべての人の生涯が神の前で調べられる。われわれの助け主であられるイエスは、この地上に最初に生存した人々からはじめて、各時代の人々のためにとりなし、現在生きている人々で終わられる。すべての名があげられ、すべての人の事情が詳しく調査される。受け入れられる名もあれば、拒まれ名もある。もしだれかが、罪を悔い改めず、許されないまま、記録の書に残しておくならば、彼らの名は、命の書から消されて、彼らの善行の記録も神の覚えの書から消される。…
真に罪を悔い改め、キリストの血が自分の贖いの犠牲であることを信じた者は、みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の許しが書きこまれる。彼らは、キリストの義にあずかる者となり、彼らの品性は、神の律法にかなった者となったので、彼らの罪は、拭い去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるにふさわしいものとされるのである。…仲保者イエスは、彼の血を信じる信仰によって勝利した者がみな、その罪を許され、再びエデンの家郷に戻って『以前の主権』を彼と共に継ぐ者となるように、嘆願されるのである(ミカ4:8)。サタンは、人類を欺き、誘惑することによって、人類創造における神のご計画を挫折させようと考えた。しかし、キリストは今、人間が堕落しなかったかのように、この計画の実行を求められるのである。キリストは、ご自分の民のために、完全で充分な許しと義認だけでなくて、彼らが、ご自分の栄光にあずかり、共に御座につくことを求められるのである。
イエスが、彼の恵みに浴する人々のために嘆願される一方において、サタンは、彼らを罪人として神の前に告訴する。大欺瞞者サタンは、彼らに疑惑をいだかせ、神に対する信頼を失わせ、神の愛から彼らを引き離し、神の律法を犯させようとしてきた。そして今度は、サタンは、彼らの生涯の記録を指摘し、品性の欠陥、贖い主のみ栄えを汚したところの、キリストに似ていない点、そして、彼が誘惑して彼らに犯させたすべての罪を指摘して、これらのことのゆえに彼らは自分の臣下であると主張するのである。
イエスは、彼らの罪の弁解はなさらないが、彼らの悔い改めと信仰を示して、彼らの許しを主張なさり、天父と天使たちの前で、ご自分の傷ついた両手をあげ、わたしは彼らの名を知っている、わたしは彼らをわたしのたなごころに彫り刻んだ、と言われるのである。」(各時代の大争闘下巻p215-217)

「人間は自分だけの力では、敵の告発に対処することができない。彼は罪に汚れた衣をまとって、罪を告白しながら、神の前に立っているのである。しかし、彼らの助け主であられるイエスが、悔い改めと信仰によってその魂を彼にゆだねたすべての者のために、力ある嘆願をして下さる。イエスは彼らの訴えを述べ、カルバリーでの大いなるいさおしによって、告発者の打ち破られるのである。神の律法に対するイエスの完全な服従が、天においても地においても、いっさいの権威を彼に与えた。そして彼は、罪深い人間のためにあわれみと和解を、天の父のお求めになる。彼は神の民を責める者に向かって言われる。『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。この人々はわたしの血によって買い取った、火の中から取り出した燃えさしである』。そして信仰をもってイエスに信頼する者に、彼は「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」という確証をお与えになるのである(ゼカリヤ3:4)。
キリストの義の衣を着たものは、みな彼の前に選ばれ、忠実で真実な者として立つのである。サタンは彼らを、救い主の手から奪い去る力がない。キリストは、忍耐と信仰をもって保護を仰ぎ求める者が、ひとりでも敵の権力下に陥ることをお許しにならない。…
ヨシュアと御使いに関するゼカリヤの幻は、贖罪の大いなる日の、最後の場面における神の民の経験に、特別にあてはまる。…
サタンは自分が神の民に犯させた罪を、正確に知っている。そしてサタンは、彼らが罪を犯したから神の保護と受けられなくなったと言って告発し、自分には彼らを滅ぼす権利があると主張するのである。彼は彼自身と同様に、彼らも神の恵みから除外されるべきであると言うのである。『この人々が、天におけるわたしの場所を占め、わたしと一緒になった天使たちの場所を占める人々であろうか。彼らは、神の律法に従うと言っている。しかし、彼らはその戒めを守ったであろうか。彼らは神を愛するよりは、自己を愛したのではなかろうか。彼らは神に仕えるよりは、自分の利益を重んじたのではなかろうか。彼らは、この世のものを愛したのではなかろうか。彼らの生涯を汚した罪を見よ。彼らの利己心、互いに対する彼らの悪意、憎しみを見よ。神は、わたしとわたしの天使たちをみ前から追放しながらも、なお、同じ罪を犯したこれらの人々に、報いをお与えになるのであるか。ああ主よ、あなたはそのようなことを行っては、公平ではない。正義は彼らに対しても、宣告が発せられることを要求する』とサタンは言うのである。しかしキリストに従った人々は、罪を犯しはしたけれども、全的に降伏してサタンの手下たちに支配されてはいなかったのである。彼らはその罪を悔い改めて、謙遜と悔恨の念をもって主を求めた。そして助け主であられイエスは、彼らのために嘆願されるのである。彼らの忘恩によって最もひどい取り扱いを受けられたかた、また彼らの罪を知るとともに、その悔い改めをも知っておられるかたが言われる。『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。わたしはこの人々のために、わたしの生命を与えた。彼らは、わたしのたなごころに彫り刻まれている。彼らの品性に不完全なところがあろう。彼らは、努力して失敗したこともあろう。しかし彼らは悔い改めた。そしてわたしは、彼らを許し受け入れたのである』。…
サタンが告発をしていたときに、目には見えないが、聖天使たちがあちこち行きめぐって、忠実な人々に行ける神の印を押していた。この人々は、その額に父なる神の名を記されて、小羊とともにシオンの山に立つのである。彼らはみ座の前で新しい歌を歌うが、それは地上から贖われた144,000人の他は、だれも学ぶことができない。『彼らは…小羊の行く所へは、どこへでもついていく。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らの傷のない者であった』(黙示録14:4,5)。」(国と指導者 下巻p192-197)

大祭司:

「すべての者は、自分たちの大いなる大祭司キリストの立場と働きについて、自分で知っている必要がある。そうしなければ、この時代にあって必要な信仰を働かせることも、神が彼らのために計画しておられる立場を占めることもできなくなる。」(各時代の大争闘 下巻p222)

影のアロンと本体のキリスト
「大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。…かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、『あなたこそは、わたしの子、きょう、わたしはあなたを生んだ』と言われたから、お受けになったのである。また、ほかの箇所でこう言われている、『あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である』。」

(ヘブル5:1-6)。「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰を固く守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」(ヘブル4:14,15)。

「キリストの犠牲と祭司職の影であった、型としての制度において、聖所の清めは、年ごとの奉仕において大祭司が行う最後の務めであった。それは、贖罪の最後の働き、すなわち、イスラエルから罪を取り除くことであった。それは、天の記録に記されている神の民の罪を除く、あるいは消し去るという、天の大祭司の奉仕における最後の働きを予表していた。この務めには、調査の働き、審判の働きが含まれていた。そして、それは、キリストが力と大きな栄光のうちに天の雲に乗ってこられる直前におこる。なぜならば、彼が来られるときには、すべての人の運命は決定しているからである。」(各時代の大争闘 下巻p46)
「キリストを象徴したアロンと同じようにわたしたちの救い主は、聖所の中で、神の民のすべての名を、胸の上にかけておられるのである。わたしたちの大祭司は、わたしたちに、神を信頼することを促して、わたしたちに言われた励ましの言葉を全部覚えておられる。彼は、ご自分の契約をお忘れにならない。」(キリストの実物教訓 p127,128)

とりなし:

概要
「ついに日の老いたる者がきて、いと高き者の聖徒のために審判を行なった。そしてその時がきて、この聖徒たちは国を受けた。」(ダニエル7:22)。「キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:34)。「キリストは天で何をしておられるのであろうか。このかたは、わたしたちのためにとりなしておられる。…真心から悔い改めた者の祈りが天に立ちのぼるとき、キリストは御父に『わたしが彼らの罪を引きうけます。彼らをあなたのみ前に罪なき者として下さい』と仰せになる。このかたは、彼らの罪を彼らから取り除かれるとき、その心を栄光に輝く真理と愛の光で満たされる。」(SDAバイブル・コメンタリ[E.G.Whiteコメント]7巻p930)。
「第三天使の使命が閉じられると、もはや地の罪深い住民のためのあわれみの嘆願はなされない。神の民はその働きを成し遂げたのである。彼らは『後の雨』すなわち、『主のみ前から』来る『慰め』を受けて、自分たちの前にある試みの時に対する準備ができた。天使たちは、天をあちらこちらへと急ぎまわっている。ひとりの天使が地から戻ってきて、自分の働きが終ったことを告げる。すなわち、最後の試みが世界に臨み、神の戒めに忠実であることを示した者はみな、『生ける神の印』を受けたのである。その時イエスは天の聖所でのとりなしをやめられる。イエスはご自分の手を挙げて、大声で『事はすでに成った』と仰せになる。そして、イエスが『不義な者たちはさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ』と厳粛に宣言されると、天使の全軍はその冠を脱ぐ(黙示録22:11)。どの人の判決も、生か死かに決まった。キリストはご自分の民のために贖いをなさり、彼らの罪を消し去られた。キリストの民の数は満たされ、『国と主権と全天下の国々の権威』とは、今まさに救いを相続する者に与えられようとしており、イエスは王の王、主の主として統治されるのである。」(各時代の大争闘 下巻p385,386)

目的

「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」(ヨハネ第一2:1)。
「わたしたちがイエスをつねに変わらず信頼しているならば、わたしたちがささげる神へのささげ物は、わたしたち自身となる。わたしたちは自分の唯一の希望として、キリストの義ととりなしにより頼むようになる。そこには、混乱も、不信もない。なぜなら、信仰によってわたしたちは、イエスが、まさにこの目的のために、すなわち世の罪をあがなうために神に定められたことがわかるからである。このかたは、ご自分によって神のもとへ来るすべての者のために仲保し、ただ彼らが信じさえすれば、彼らの救いをなし遂げてくださることを、厳粛な契約によって保証しておられる。わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みのみ座に近づく特権が与えられている。」(原稿14巻p276,277)

だれのために

「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。」(ヨハネ17:24)。
「わたしたちの大いなる大祭司が、ご自分が買い取られた人々のために、恵みのみ座の前で嘆願しておられることを覚えていよう。このかたは、いつも生きておられ、わたしたちのためにとりなしをしておられる。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち義なるイエス・キリストがおられる。イエスの血は、背教する者、反逆する者、大いなる光と愛に対して罪を犯す者ために、力と効力をもって嘆願している。サタンはわたしたちの右側に立って私たちを訴えているが、わたしたちの仲保者は神の右側に立ってわたしたちのために嘆願しておられる。このかたはご自分に任された裁判は一度として負けられたことはなかった。わたしたちは自分たちの仲保者を信頼することができる。なぜなら、このかたは、わたしたちのためにご自分の功績を主張なさるからである。裏切りと裁判を前にして祈られたこのかたの祈りを聞きなさい。わたしたちのために祈られるこのかたの祈りに耳を傾けなさい。なぜなら、このかたはわたしたちを覚えておられるからである。このかたが誘惑の世にあるご自分の教会をお忘れになることはない。このかたは試練を受け苦しんでいるご自分の民をご覧になり、彼らのために祈られる。すべての言葉を魂の板に刻みつけなさい。このかたは『わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。…わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。』…このかたは、最もいやしい者、最もしいたげられて苦しんでいる者、また最も試練を受けて誘惑されている者のためにとりなしておられる。その御手を挙げて、『わたしは彼らをわたしのたなごころに彫り刻みました』と嘆願される。神はご自分の御子の嘆願を聞き、それに答えることを喜ばれる。…ご自分に従う者について、イエスは、『父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい』と祈られた(ヨハネ17:24)。何という要求であろう!なんと優しく、言い表せない愛がこの嘆願のうちに含まれていることであろう!」(レビュー・アンド・ヘラルド1893.8.15)

「彼は言った、『二千三百の夕と朝までである。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。』(ダニエル8:14)。「これが2300日が終了した時に始まった務めであった。その時に、預言者ダニエルが預言したとおり、われわれの大祭司は、彼の厳粛な働きの最後の部分を行うために、すなわち聖所を清めるために、至聖所に入られたのであった。…『二千三百の夕と朝までである。そして聖所は清められてその正しい状態に復する』というダニエル8:14の預言と、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからである』という第一天使の使命とは、ともに、至聖所におけるキリストの務め、すなわち調査審判をさすもので、…2300日の終りに起きる事件…であった。」(各時代の大争闘 下巻p136,p139)
「2300日の終りである1844年に起こると預言されたのは、この来臨のことであって、キリストが地上に再臨されることではなかった。われわれの大祭司は、天使たちを従えて、至聖所に入り、神のみ前で、…調査審判の働きをなし、贖罪の恵みにあずかる資格があることを示したすべての人のために贖いをなさるのである。神の民は今天の聖所に目をとめていなければならない。そこで、…わたしたちの大いなる大祭司がご自分の民のためにとりなしをしておられるのである。」(信仰によって私は生きる7月22日)

場所

「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。」(ダニエル7:9,10)。「審判は今、天の聖所において進行中である。長年にわたって、この働きは続けられてきた。間もなく、――その時がいつかはだれも知らないが、――生きている人々の番になる。」(各時代の大争闘 下巻p224)
「キリストの祭司職のとりなしは、今わたしたちのために天の聖所において進行中である。しかし、わたしたちの大いなる大祭司が、ご自分を個人的な救い主として受け入れたすべての者ために、ご自分の犠牲の報いとしてその契約に含まれているすべての恵みを要求し、御父の前にご自分の血を提示しておられることを本当に理解している者はなんとわずかなことであろう。この犠牲があるために、このかたはいつも生きていて彼らのためにとりなし、彼によって神に来る人々を、いつも豊かに救うことがおできになるのである。」(SDAバイブル・コメンタリ[E.G.Whiteコメント]7巻p932)

人として

「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。」(ダニエル7:13)。「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(テモテ第一2:5)。「このように聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。」(ヘブル7:26)。
「人として、このかたは地上で生活なさった。人として、このかたは天に昇られた。人として、このかたは人類の身代わりであられる。人として、このかたはわたしたちのために生き、とりなしをしておられる。人として、このかたはご自分を愛し、ご自分が今そのために住まいを用意しておられる者を連れて行くために、王の権威と栄光をたずさえて来臨される。わたしたちは、神が『義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかた(人)によってそれをなし遂げようとされている』ことを喜び、感謝するべきである(使徒行伝17:31)。」(BEcho1892.11.1)

「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」(ヨハネ第一2:1)。
「キリストは生ける救い主であられる。今日、このかたは、わたしたちの仲保者として神の右に座し、わたしたちのためにとりなしをしておられる。そしてこのかたは、ご自分を見て、救われるようにとわたしたちに訴えておられるのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1896.9.29)。
「キリストは大祭司として幕のうちにおられ、決して朽ちることのないカルバリーによって、神にあって生きておられながら、また絶えず罪に死に、こうしてもしだれか罪を犯す者があれば、その人には父のみもとに助け主がおられるのである。…わたしたちの仲保者として、イエスはこの贖いの働きを完全になし遂げることがおできになる。しかし、ああ、何という代価であろう!罪なき神の御子が、ご自分にはなんの責任もない罪のために責めを受けられたのである。それは、罪人が悔い改めと信仰を通して、その罪人自身の功績はまったく含まれていないキリストの義によって義とされるためであった。地上に生存したすべての人の罪がキリストの上に置かれた。それは、だれひとりとしてサタンとの戦いに敗北する必要がない事実を証している。ご自分によって神に来る人々をいつも救われるかたの力を、すべての人がつかむことができるように備えはなされた。」(SDAバイブル・コメンタリ[E.G.Whiteコメント]7巻p484,485)

とりなしとさばき:

「ダニエル8:14に示されているところの、キリストがわれわれの大祭司として、聖所を清めるために至聖所に来られるということ、ダニエル7:13に提示されている、人の子が日の老いたる者のもとに来るということ、…これらは、同じ出来事の描写である。」(各時代の大争闘下巻p142)
「神の民は今、天の聖所に目をとめていなくてはならない。そこでは、さばきの働きにおけるわたしたちの大いなる大祭司の最終的な務めが進行している。このかたは、そこでご自分の民のためにとりなしておられるのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1883.11.27)。
「型の奉仕において、一年の終りに贖罪の働きがあったように、人間のあがないのためのキリストの働きが完了する前に、聖所から罪を取り除くための贖罪の働きがある。これは、2300日が終了した時に始まった働きである。そのとき…わたしたちの大祭司は、ご自分の厳粛な働きの最後の部分を行うために――聖所を清めるために至聖所に入られた。…この聖所の清めの働きには、必然的に調査の働き――審判の働きが含まれている。この働きは、キリストがご自分の民を贖うために来られる前になされねばならない。なぜなら、このかたが来られるときには、すべての人をそのわざに応じて報いるために、ご自分の報いを携えてこられるからである。」(信仰によって私は生きる7月20日)