「小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊はまたはやぎのうちから、これを取らなければならない」(出エジプト記12:5)。「祭司たちは、犠牲としてささげられる動物をみなよく調べ、傷があるものは、ことごとく退けなければならなかった。『傷のない』供え物だけが、『きずも、しみもない小羊』として、ご自身をおささげになる主の完全な純潔を象徴するものとなることができた(ペテロ第一1:19)。」(人類のあけぼの上巻p415)
宗教的な礼拝の中で、罪人が救い主の足下にひざまずき自分の罪を告白するときほど、罪人を主に間近に触れさせるときはありません。すべて罪祭は、傷のないものでなくてはなりませんでした。こうして、救い主の完全な犠牲を象徴したのです。「雄の全き子牛」(レビ記4:3)、「雄やぎの全きもの」(23)、また「雌やぎの全きもの」(28)が、「きずも、しみもない小羊のようなキリスト」(ペテロ第一1:19)を象徴するのでした。
これらの供え物は「会見の幕屋の入口に連れてきて主の前に至り」(レビ記4:4)、あるいは「会見の幕屋の前に連れて」(レビ記4:14)こられました。このことによって、私たちは、「あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこう」(ヘブル4:16)と励まされます。
These offerings were brought “unto the door of the tabernacle of the congregation before the LORD” Leviticus 4:4 or “before the tabernacle of the congregation.” Leviticus 4:14 which encourage us to “come boldly unto the throne of grace, that we may obtain mercy, and find grace to help in time of need.” Hebrews 4:16
罪人が「その犯した罪を告白し」(民数記5:7)た後、彼らは、「その子牛の頭に手を置き、その子牛を主の前でほふらなければな」(レビ記4:4)りませんでした。もし、それが個人であれば、「その罪祭の頭に手を置き、燔祭をほふる場所でその罪祭をほふらなければなら

ない」(レビ記4:29)。ここにもまた、「彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき」(イザヤ53:10)、「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」(ヨハネ第一1:9)と述べられたすばらしい救いの計画があります。
血は、「聖所の垂幕の前で主の前にその血を七たび注がなければならない。祭司はまたその血を取り、主の前で会見の幕屋の中にある香ばしい薫香の祭壇の角にこれを塗らなければならない。…その血の残りはことごとく会見の幕屋の入口にある燔祭の祭壇のもとに注がなければな」りませんでした。(レビ記4:5-7,16-18)。「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル9:12)。

罪人は「すべての脂肪は…取」り去らなくてはなりませんでした(レビ記4:31)。「手ずからこれを携えてこなければならない。すなわちその脂肪と胸とを携えてきて、その胸を主の前に揺り動かして、揺祭としなければならない」(レビ記7:30)。「しかし、…主の敵は小羊の脂肪のようである」(詩篇37:30英語訳)。
これらのことはすべて、罪人が自分の罪を告白した後、「悪を行うことをやめ」る必要があることを教えています(イザヤ1:16)。「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来るそのときすべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。…また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしがことを行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる」(マラキ4:1-3)。

すべての燔祭の起源はエデンの園の門にあり、これは十字架にまでおよんでいます。人間が誘惑と罪のもとにある間は、決してその意味を失うことがありません。犠牲はあますことなく祭壇の上に置かれて焼かれましたが、これは罪を引き渡すだけでなく、全生涯を神のご奉仕のためにささげることをあらわしています。

燔祭は「主にささげる香ばしいかおり」(レビ記1:9)でした。これは、「わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられた」キリストを象徴しています(エペソ5:2)。「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」

(サムエル上15:22)。「『あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった』」(とあり、次に『見よ、わたしはあなたの御旨を行うためにまいりました、神よ』」とある(ヘブル10:8-9)。 “Sacrifice and offering and burnt offerings and offering for sin thou wouldest not, neither hadst pleasure therein; which are offered by the law; Then said he, Lo, I come to do thy will, O God.” Hebrews 10:8-9

「そこでヤコブは神が自分と語られたその場所に一本の石の柱を立て、その上に灌祭をささげ、また油を注いだ」(創世記 35:14)。
灌祭は、わたしたちのために注がれたキリストの命を型として象徴しています。「これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだ」されたからです(イザヤ53:12)。そしてこの本体は、パウロのように、自分を注ぎ出して犠牲をささげ祭壇の上で焼きつくされることを喜ぶ一人ひとりの生活の中で繰り返されるのです。and the antitype can be repeated in the life of every one who, like Paul, rejoices in being poured forth upon the sacrifice and consumed upon the altar. 「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげる用意ができている」(テモテ第二4:6英語訳)。 “For I am now ready to be offered.” 2 Timothy 4:6   これはまた、罪人が誠心からささげるとき、心や命を神のみ前に注ぎ出すことをも象徴しています。「たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、灌祭としてわたしの血を注ぐことがあっても、わたしは喜ぼう」(ピリピ2:17英語訳)」It also represents the pouring out of the heart or life of the sinner before God, when offered in sincerity. “even if I am being poured out as a drink offering upon the sacrifice and service of your faith, I rejoice.” Phi 2:17 (NAS)

供え物には、二種類あります。(1)血と共にささげる物と(2)血を除いてささげる物です。素祭は、後者に属するものであり、麦粉と油、そして乳香からなっています。この供え物は「種を入れて焼いてはならない。…これは罪祭…と同様に、いと聖なるものである」(レビ記6:17)。すべての素祭は、塩で味付けられました。素祭は、私たちのもっているものをすべて、また私たちの存在すべてを主に完全に明け渡すことを象徴した供え物です。この供え物は、必ずなんらかの動物の犠牲と共にささげられました。こうして、罪の許しと主への献身の関係を示していたのです。罪人がすべてを祭壇の上に置いて、主の奉仕のために使っていただくのは、個人の罪が許された後です。「人が素祭の供え物を主にささげるときは、…祭司はその

麦粉と油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、素祭の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。…これは主の火祭のいと聖なる物である」(レビ記2:1-3)。「兄弟たちよ、そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。 あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」(ローマ 12:1)「かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である」(ピリピ4:18)「あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない」(レビ記2:13)。「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなた自身のうちに塩を持ちなさい。そして互いに和らぎなさい」(マルコ9:50)。「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう」(コロサイ4:6)。

愆祭(けんさい)の特別な目的というのは、神や人に対して不正直な取り扱いをしたとき、これをあがなうことです。そして、ささげ物としての羊以外に必ず罪のために弁償することが求められました。これは、私たちが神や人に不誠実な取り扱いをした場合、ただ罪を告白し供え物を持ってくるだけでは充分ではなく、犯した悪のために償いをしなければならないことを教えていたのでした。ですから、愆祭は通常の罪祭よりも完全なささげ物でした。It taught very clearly that wherein we have dealt falsely with God or man, simply confessing the sin and bringing an offering will not suffice, we must make amends for the wrong. Therefore the trespass offering was a more complete offering than the ordinary sin offering.
「もし人が不正をなし、主の聖なる物について罪を犯したときは、その償いとして、あなたの値積りにしたがい、聖所のシケルで、銀数シケルにあたる雄羊の全き物を、群れのうちから取り、それを主に携えてきて、愆祭としなければならない。そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。」(レビ記5:15-16 (6:1-7 参照))
「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の上に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」(マタイ5:23-26)

雌牛は、ひとつのぶちもない赤いもので、特別な意味においてキリストの血を象徴しました。また「罪を知らないかた」であるキリストを象徴する傷のないものでなければなりませんでした。この犠牲は時々に応じて、儀式上、何らかの理由で死んだ物にさわった者たちの汚れを清める必要が生じたときにささげられました。The heifer was to be red, without one spot, thus in a special manner typifying the blood of Christ, it was to be without blemish, thus representing Him ‘who knew no sin’. It was an occasional sacrifice, offered when needed to purify from ceremonial uncleanness those who for any reason had touched the dead.
「汚れた者があった時には、罪を清める焼いた雌牛の灰を取って器に入れ、…」(民数記19:17-19)。「イスラエルの人々に告げて、完全で、傷がなく、まだくびきを負ったことのない赤い雌牛を、あなたのもとに引いてこさせ、」(民数記19:2)「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体を清め聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」(ヘブル9:13-14 )。
「その町の長老たちはその雌牛を、耕すことも、種まくこともしない、絶えず水の流れている谷へ引いて行って、その谷で雌牛のくびを折らなければならない」(申命記21:4)。「だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。」(ヘブル 13:12 )。

多くの点において、酬恩祭は他の供え物とは異なっています。これは、過越の祭をのぞいて唯一人々が肉を食するのを許された供え物でした。過越の祭りと違って、一年のうち一日だけに限られてはおらず、いつでも儀式を行うことができました。「わたしは平安をあなたがたに残していく。わたしの平安をあなたがたに与える」(ヨハネ14:27)。「キリストはわたしたちの平和であって」(エペソ2:14)。
「もし、彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない」(レビ記3:1)(レビ記7:29-31参照)。これもやはり「なんらの罪がない」イエスを象徴しています(ヨハネ第一3:5)。罪人がささげるときには、「あなたがたは、…自分を吟味するがよい」(コリント第二13:5)。

人間が受け継いでいるすべての病気の中で、らい病ほど、忌まわしいものはありませ

ん。らい病はとても感染しやすい病気で、最悪な罪を象徴しています。らい病人を清めるための儀式は他のどの供え物よりも多くのことを包含しています。祭司がらい病人をよく調べ、もしらい病がいえているならば、そのいえた人は「生きている清い小鳥二羽と、香柏の木、そして緋の糸と、ヒソプとを」祭司のところへもってきました。The ceremony for the cleansing of the leper embraced more than any other offering. 鳥の一羽は、流れ水を盛った土の器の上で殺し、そして生きている鳥は、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共にその血に浸しました。than the living bird, the scarlet, and the cedar were all dipped in the blood. 祭司はこの血をらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者と宣言したのでした。「鳥が殺されたのは、生きた水の上でした。あふれ流れるせせらぎは、たえず流れたえず清めるキリストの血の力の象徴である。」(SDAバイブル・コメンタリ[E.G.Whiteコメント]1巻p1111)

「そして生きている小鳥を、…かの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、これらをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない」(レビ記14:6,7)。「そして祭司はその愆祭の血を取り、これを清められるものの右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。…祭司は手のひらにある油の残りを、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、さきにつけた愆祭の血の上につけなければならない 」(レビ記4:14-17) “And the priest shall take some of the blood of the trespass offering, and the priest shall put it upon the tip of the right ear of him that is to be cleansed, and upon the thumb of his right hand, and upon the great toe of his right foot…
私たちの手と足には、「イエス・キリストの…血のそそぎ」(ペテロ第一1:2)が必要です。こうして、私たちの耳は、自分たちを清く保つことだけを聞くために、手は神の奉仕のためだけに、そして足は主の戒めの道を進むためだけにささげられるのです。「だれか、わがつかわす使者のような耳しいがあるか。…耳を開いても聞かない」(イザヤ42:18-20)。「わたしは、わが両手もまた、わたしの愛するあなたの戒めへと掲げ、あなたの定めを深く思います」(詩篇119:48英語訳)。
Thus consecrating our ear to hear only those things that would tend to keep us clean, our hand to the service of God, and our feet to travel only in the way of the Lord’s commandments. “Who is…deaf, as my messenger that I sent?…

Opening the ears, but he heareth not.” Isaiah 42:18-20 “My hands also will I lift up unto thy commandments, which I have loved; and I will meditate in thy statutes.” Psalm 119:48
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(創世記17:1)。

罪祭

「多くの者にとって、なぜ旧約の時代にこれほどまで多くの犠牲のささげ物が要求されたのか、なぜ、これほど多くの犠牲が血を流し祭壇へ連れてこられたのかというのは不可解なことであった。しかし、つねに人々に前に示され、思いと心に刻まれている偉大な真理は、『血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない』ということである(ヘブル9:22)。すべて血を流す犠牲は『世の罪の取り除く神の小羊』の型である(ヨハネ1:29)。型と影によって、霊的な天の事柄の前触れを示すユダヤ人の礼拝制度の創始者は、キリストご自身であった。多くの者がこれらの供え物の真の意義を忘れた。そしてキリストを通してのみ、罪のゆるしがあるのだという偉大な真理が彼らに失われてしまったのである。どんなに多くの犠牲の供え物があっても、牛ややぎの血は罪を取り除くことができなかった。…すべての犠牲において具体化され、すべての儀式において印象づけられ、務めをなす祭司によって厳粛に説かれ、そして神ご自身によって教えこまれた教訓、それはキリストの血によってのみ、ゆるしがあるということであった。」(神の驚くべき愛p155)
「救い主の約束が与えられ、大いなる罪祭、キリストの死を予表したささげ物の犠牲制度が設けられた。しかし、もし神の律法を犯すことがなかったならば、死もなければ、救い主の必要もなかった。したがって、犠牲の必要もなかった」(人類のあけぼの上巻p430)
「罪のためのいけにえと捧げ物はもう全部終った…『ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである』(ヘブル10:7; 9:12)」(各時代の希望下巻p280,281)
「祭司たちは罪のための供え物として動物の血をもって、地上の聖所に入った。キリストは、ご自分の血の供え物によって、天の聖所に入られた。…イスラエルの人々は、地上の聖所に犠牲や供え物を持って来ることによって、来るべき救い主の功績を理解するべきであった。そして、神は知恵のうちに、この働きの細かな点をわれわれにお与えになり、それによってわれわれが、天の聖所におけるイエスのお働きをよく理解するようになさったのである」(初代文集p412,413)
Through the sacrifices and offerings brought to the earthly sanctuary, the

children of Israel were to lay hold of the merits of a Saviour to come. And in the wisdom of God the particulars of this work were given us that we might, by looking to them, understand the work of Jesus in the heavenly sanctuary.” EW 252

燔祭(はんさい)

「天の指揮者、神の御子が、罪人のために死ぬ必要があるという贖罪の神秘は、天使でさえも理解に苦しんだ。アブラハムに、その子を捧げよという命令が与えられたときに、全天の関心がそれに注がれた。彼らは、緊張して、この命令が実行される段階を見守った。『燔祭の小羊はどこにありますか』とイサクがたずねたとき、アブラハムは、『神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう』と答えた。父が今にも息子を殺そうとしたとき、彼の手がとめられて、神がそなられた雄羊がイサクに代わって捧げられたときに、贖罪の真理が明らかに照らし出されて、人類のための神の驚くべき準備が、天使たちにさえ、明瞭に理解されたのである。(ペテロ第一1:12参照)」(人類のあけぼの上巻p162)
「ノアは、自分たちをあわれみ深く守ってくださった神を忘れなかった。そこですぐに祭壇を立てて、すべての清い動物とすべての清い鳥を取って祭壇の上で燔祭として捧げ、大いなる犠牲であられるキリストへの信仰をあらわし、自分たちを驚くべき方法で守ってくださった神への感謝を表明した。ノアの供え物は神のみ前に芳しい薫香のようにたちのぼった。神は供え物をお受け入れになり、そしてノアとその家族を祝福された。ここに、地上に住むすべての者に教えられるべき教訓がある。神の恵みと愛が自分たちに表わされたときはいつでも、まず先にあふれる感謝と謙遜な礼拝とを神にささげるべきである」(預言の霊1巻p76,77)

素祭と灌祭

「モーセを通して、キリストは『また安息日には、一歳の雄の全き小羊二頭と、麦粉一エパの十分の二に油を混ぜた素祭と、その灌祭とをささげなければならない。これは安息日ごとの燔祭であって、常燔祭とその灌祭とに加えらるべきものである』と宣言された(民数記29:9,10)。
犠牲の供えものに関する祭司たちの働きは、安息日に増し加えられた。しかし、神の奉仕における彼らの聖なる働きは、十誡の第四条を犯すものではなかった。恵みと必要の働きは不法ではなかった。神はこれらのことをお責めにはならなかった。麦畑を通りかかったときに、麦穂を摘んで自分の手でもんで、彼らの空腹を満たすという恵みと必要の行為は、ご

自身がシナイ山で宣布された律法に一致すると宣言された。このように、イエスは役人、長老、祭司たちの前で、また全天の前で、また堕落した天使と堕落した人間の前で、ご自分が罪のないことを宣言されたのであった。」(レビュー・アンド・ヘラルド1897.8.3)
「儀式においては、どのいけにえにも塩が加えられた。これは、香をささげるのと同じに、キリストの義だけが奉仕を神に受け入れられるものとすることを意味した。この習慣にふれて、イエスは、『すべての供え物は塩をもて塩つけらる』(マルコ9:49元訳)。『あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして互に和らぎなさい』と言われた(マルコ9:50)。わが身を『神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物』として捧げる者は、救いの塩すなわち救い主の義を受け入れねばならない(ローマ12:1)。」(各時代の希望 中巻p218)

愆祭(けんさい)

「私たちは偉大にして聖なる信仰を告白している。であるから、私たちの品性は、信仰と、神の偉大な道徳的標準に一致していなくてはならない。すべてのいやしい行動、あらゆる不誠実、あらゆる思いあがりを断ち切ろうではないか。そしてもし、だれかがこれらの点で悪を行ったとしたら、罪を告白し、神への愆祭に加えて、悪を働いた相手に償いをし、慰めの時が来るときには、その罪が拭い去られ、そして命の書に名がとどまるようにしよう」(福音宣伝者p432)
「すべての家族で全員が、自分たちの家に対して働きを始めよう。神のみ前にへりくだろう。目に見えるところに愆祭の箱を置き、だれでも家の中で他の人に対して親切でない言葉を語ったり、怒りの言葉を発したりしたら、ある一定額を愆祭の箱に入れることに決めるというのは良いことである。これによって、兄弟だけでなく自分自身をも傷つける悪い言葉を出すことに対して防備することができる。だれひとりとして、自分自身で舌という器官を制し得る者はいない。しかし神は、ご自分の許に悔悟の心で信仰のうちに謙遜な嘆願をたずさえてくる者のために働いてくださる。神のみ助けによって、あなたの舌を御しなさい。語ることを少なくし、もっと祈りなさい。」(レビュー・アンド・ヘラルド1895.3.12)

赤い雌牛の供え物

「イスラエルの子らは昔、儀式的な汚れから身を清めるために全会衆のための供え物を捧げるよう命じられた。この犠牲は、赤い雌牛であって、罪の汚染から贖うべき、より完全な供え物を象徴していた。これは、だれでも必要があってあるいは偶然にも死んだものにふれてしまった者を清めるために、場合に応じて捧げられる犠牲であった。何らかの方法で死に

ふれた者はすべて、礼典的に汚れた者とみなされた。これによって、ヘブル人の心に死は罪の結果生じたものであって、したがって罪の表れであることを強烈に印象づけた。

All who came in contact with death in any way were considered ceremonially unclean. This was to forcibly impress the minds of the Hebrews with the fact that death came in consequence of sin and therefore is a representative of sin.
一匹の雌牛、一つの契約の箱、一つの青銅のへびが、印象深く一つの偉大な供え物、すなわちキリストの犠牲を指し示している。
The one heifer, the one ark, the one brazen serpent, impressively point to the one great offering, the sacrifice of Christ.
この雌牛は、血の象徴として赤くなければならなかった。また、完全で傷がなく、くびきを負ったことのないものでなければならなかった。ここでもまた、キリストが象徴されていた。神の御子はみずから贖罪の働きを完成なさるために来られた。このかたには何の義務的なくびきはなかった。なぜなら、このかたは独立したすべての律法の上に立つかたであったからである。御使たちは、神の知的使命者として、義務のくびきの下にある。彼らの個人的な犠牲は堕落した人間の罪を贖うことはできなかった。キリストだけが罪深い人類の贖いを引きうけるのに律法の要求から自由であられた。」(信仰によって私は生きる7月12日)

酬恩祭

「カルバリーを見よ。あなたが十字架上のイエスを眺めるとき、罪の極悪な性質が見えてこないであろうか。神の愛しいひとり子を死に至らせたのは、罪であった。そして罪は不法である。預言者は言った、『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』(イザヤ53:4,5)」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ 1915.1.5)
「定められた日に過越の祭が祝われ、その週、人々は、酬恩祭の犠牲を捧げ、神が彼らに何をすることを望んでおられるかを学んで過ごした。レビ人は、日ごとに主に関することを人々に教えた。そして、神を求めるために、その心の準備をした者は、ゆるしを与えられたのである。礼拝に集まった群衆は、大いなる喜びを味わった。『レビびとと祭司たちは日々に主を讃美し、力をつくして主をたたえた』。すべての者は、心を一つにして、このように恵みとあわれみとを示された神を讃美したいと願ったのであった(歴代志下30:20,21)」(国と指導者 上巻p300,301)
「私たちは快活であるべきである。天の平安が私たちの心を治め、それは瓶の中に封じ込められた香水のようにではなく、マリアの捧げたイエスへの供え物のように、家中を芳しいかおりで満たす。平安が私たちの家庭にあるであろう。なぜなら、イエスの愛が治めるところはどこでも、平安が宿るからである。そしてそれは喜びでもある。なぜなら、そこには聖なる静かな天来の神への信頼があるからである」(レビュー・アンド・ヘラルド1885.8.14)

らい病人の清め

「生きている鳥を殺された鳥の血に浸して、また楽しい生活に放つというこのすばらしい象徴は、われわれにとって贖罪の象徴である。そこには、死と命が混ざっており、隠された真理を探す者たちに、われわれの贖い主のゆるしの血と復活および命の結合を示している。殺された鳥は、生ける水の上にあった。流れている水は、世の初めからほふられたキリストの絶えず流れる、清めの血の効力を象徴していた。それは、すべての罪のしみを洗い清める、ユダとエルサレムのために開かれた泉であった。われわれはあがないのキリストの血に自由に近づくことができる。これを、われわれはかつて罪人のために提供された中で最も尊い特権、また最大の祝福とみなさなければならない。この大いなる賜物がなんと過小評価されていることであろう!この流れはなんと深く、広く、絶えざるものであろう!聖潔を渇望するすべての魂に休息、平安があり、聖霊の生きかえらせる感化がある。そして聖なる、幸福な、平安な歩みと尊いキリストとの交わりがある。ああ、そのとき、私たちはヨハネと共に『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』と知的に言うことができるのである。」(SDAバイブル・コメンタリ[E.G.Whiteコメント]1巻p1111)
「らい病人をその恐ろしい病から清められたキリストの働きは、魂を罪から清められるこのかたの働きの実例である。…罪というらい病も…根強く、致命的で、人間の力で清めることはできない。『その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ』(イザヤ1:5,6)。しかし、イエスは、人類の中に住むためにおいでになって、何の汚れもお受けにならない。イエスの前に出ることには罪人にとっていやしの力がある。信仰をもって『主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが』と言いながらイエスの足もとにひれ伏す者はだれでも、『そうしてあげよう、きよくなれ』との答えを聞くのである(マタイ8:2,3)。」(各時代の希望 上巻p335,336)