贖いの目的は、神様と人間との再会です。再会がないなら、イエス様の犠牲は無駄に払われたことになります。わたしたちのためにご自分の命という無限の代価を払ってくださったかたについて、次のように書かれています。「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て、満足する」(イザヤ53:11)。ヨハネ17章には、キリストがゲッセマネに行かれる直前にささげられた祈りが記録されています。キリストは、すでに二階の広間で弟子たちに会われ、彼らの足を洗い、彼らにご自分の犠牲の象徴を授けられたのでした。食卓を囲んで、キリストはご自分が去られること、そして彼らがみな共に永遠に暮らせるようにまたもどって来られるというご自分の計画のことを、彼らに話されました。

キリストは闇の権力との最終的な苦闘のためにゲッセマネの園に行かれる前に、立ち止まって、ご自分のまわりにわずかな選ばれた者たちを集め、ご自分の心を祈りのうちに注ぎ出されました。そのクライマックスは24節に記されています。「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにしてください」。「イエスは、一人のためだけにではなく、ご自分のすべての弟子たちのために嘆願されたのであった。…このかたの目は将来の暗やみの覆いを貫いて、アダムのすべてのむすこ娘がたどる生涯を見とおされた。このかたは、嵐にもまれるすべての魂の重荷と悲しみを感じられた。そして、その熱誠な祈りには、生きているご自分の弟子たちと共に、終末時代までのご自分の弟子たちも含まれていた。『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにも、お願いします』。しかり、キリストのこの祈りには、わたしたちでさえ含まれているのである」(教会への証4巻p529,530)。

贖われた人々の全体を見渡しても、だれ一人として同じ人はいません。神様が「必要」と

しておられるのはその各自です。そして、神様はその一人であるあなたを失うことは決してできません。イエス様がこの世に来られたのはそのためです。このかたは、あなたの救いのため十字架上で死なれたのです。このかたは、地上にまるであなたしか存在しないかのように、あなたのために来られたのです。あなたを愛し、あなたをご自分の友として所望しておられます。このかたは、ただ羊が羊飼いについていくように、あるいは子供が父親に従うように、あなたがただ、ご自分に従うことを望んでおられるだけでなく、ご自分と話し合う相手になって欲しいと思っておられます。イエス様は、ご自分のことやご自分が物事をなさる方法をあなたがどのように考えているかを知ることを楽しみにしておられます。ご自分のなさったことがあなたを喜ばせるとき、このかたは喜ばれます。また、あなたがそれをイエス様に伝えるとき、このかたは喜ばれます。そして永遠を通じて、ご自分があなたのためになさったすばらしいみわざを説明されるほど、あなたの顔がますます輝きあなたの心が喜ぶのをごらんになって、このかたの心の喜びはあふれるのです。世界から世界へと、このかたはあなたをつれて周られるでしょう。そして、あなたの反応や答えは、宇宙の中でも他のだれもできない方法で、このかたを喜ばせるでしょう。このかたは「無限」の神であられるから、あなたをも「無限」に「必要」としておられます。そしてこのかたは、あなたを得るためにご自分が支払われた代価には、十分な価値があったと考えられるでしょう。

このかたが、一人一人のために祈られた祈りに、もう一度耳を傾けてみましょう。「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにしてください」(ヨハネ17:24)。なぜ、このかたはあなたがそばにいることを望まれるのでしょうか。あなたは、だれか自分にとって大切な人と離れていたことがありますか?もし、あなたが別離の悲しさを味わったことがあるなら、あなたの最も愛する人が遠く離れているときに思いつく一番幸せなことといえば、それはその人がいる所に自分もいることだということに違いないでしょう。あなたは、イエス様があなたのことをそのように考えていらっしゃるということを知っていましたか?

ゲッセマネで、このかたは血の汗が顔を滴り落ちるまで苦しまれました。暴徒たちはこのかたを苦しめ、むち打った後に、このかたをカルバリーへと連れて行き、天地の間にこのかたを架けました。その闇の中でサタンは、もしあなたのためにそのまま死ぬならば、二度と生きることはないであろうとの恐ろしい誘惑をもって、このかたの魂を苦しめました。影がこのかたの周囲に垂れこめるにつれて、希望の光もちらつき消えてしまいました。しかし、このかたの愛は、ますます強くなっていったのです。このかたは、あなたのためにたとえ、そ

れが永遠の死を意味していたとしても死のうと決心なさいました。復活の朝早く、神の御座への途中で、このかたは泣いていたかわいそうなマリヤを慰めるために立ち止まられました。彼女はすぐさまこのかたの足をかき抱いて礼拝しようとしました。しかし、このかたは、『いけない、マリヤよ、まだなのだ。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。行って、わたしの兄弟たちにわたしは父の許へ行くと告げなさい』と仰せになりました。

天では、天使たちはこのかたを迎えようと待っていました。しかし、このかたは彼らを手で制されました。このかたは、マリヤの礼拝を受け入れることがおできならなかったのと同様に、彼らの礼拝を受け入れることがおできにならなかったのです。そのみ心には一つの思いがありました。イエスは30年以上お会いしなかった御父の許に入られました。しかし、このかたには、御父の抱擁を受けて我が家を懐かしむ前に、聞き届けていただかなくてはならないことがありました。「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにしてください」。父よ、わたしは死にました。代価を支払いました。これで充分ではないでしょうか?戻る前に、わたしの友を残らず連れて来ることができるという保証をください。そして、そのとき、このかたはあなたのことを考えておられたのです。イエスは、宇宙の王座も、その御座を共に継ぐためにご自分が贖われた者たちを一緒につれて来ることができるという保証をいただくまでは、お受けになろうとしませんでした。イエスは、あなたにそこにご自分と共にいて欲しいと願っておられます。御父はそこにあなたがいることを願っておられます。全天はそこにあなたがいることを願っているのです。

そこで、キリストは天の聖所でのとりなしの働きに入られました。「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにしてください」。これは、イエスがゲッセマネの前にささげられた祈りでした。これが、カルバリーで最高の犠牲をささげられた時に、このかたを動かしたのです。復活の朝、このかたの思いはこのことでいっぱいでした。昇天なさるとき、心の重荷となっていたのはこの願いです。仲保の働きをなさる間中、これがこのかたの祈りでした。そして、これが、キリストの戻ってこられる直前の最終的な願いなのです。このかたは、わたしたちにそばにいて欲しいと望んでおられます。このかたはもし、わたしたちが望むなら、そこへ連れていって下さると思いますか?このかたの犠牲による再会は可能でしょうか?もちろん!そして、その再会は永遠に二度と離れることはないものです!

「わたしの兄弟姉妹がたよ、どうか、キリストが雲に乗って来られる再臨のための準備を

して欲しい。日ごとに、世に対する愛着をあなたの心から捨てなさい。経験によってキリストとの関係を持つというのがどういう意味かを理解しなさい。さばきのために準備し、キリストが来られて、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるときには、平安のうちにこのかたにお会いする者の中にいられるようにしなさい。この日には、贖われた者は、御父と御子の栄光のうちに輝き出る。御使たちは、その金の立琴を奏でて、王とその勝利の戦利品たち、すなわち小羊の血によって洗われ白くされた者たちを歓迎するのである。勝利の歌が響き渡り、全天を満たす。キリストは勝利された。このかたは天の宮廷に、ご自分の贖われた者たち、すなわちこのかたの苦闘と犠牲が無駄ではなかったという証人たちを引きつれて入られるのである。」(教会への証9巻p285,286)

アダムとエバは熱心に願った…

「アダムとエバは、罪を犯してからエデンに住むことができなくなった。彼らは、罪のなかったときの喜びに満ちた住居にとどまっていたいと熱心に願った。彼らは、その幸福な住居に住む権利をすべて失ったことを認めたが、今後は、必ず神に服従することを誓った。しかし、彼らの性質は、罪のために堕落し、悪に抵抗する力が弱まり、サタンが容易に彼らに近づく道を開いたことを彼らは知らされた。彼らは、罪のないときに誘惑に負けた。であるから、今、罪を知った状態においては、忠実に従う力が弱まったのである。」(人類のあけぼの上巻p51)
「アダムの生涯は、悲しみと屈辱と悔い改めの一生であった。彼はエデンを去ったときに、自分が死ななければならないことを考えて恐怖感におそわれた。…が、千年近くも罪の結果を見てきた後では、苦悩と悲嘆の生涯を終わらせてくださるのは、神のあわれみであることを感じた。」(人類のあけぼの上巻p78)
「アダムとエバと彼らの子孫とは、自分たちの不従順によって、命の木にあずかる権利を失ってしまった。…アダムとエバは神の律法を犯した。このことによって、彼らはエデンから追放され、命の木から引き離されねばならなくなった。彼らの不法の後にその木から取って食べるなら、罪が永続することになるのであった。」(牧師への証p133-134)

顔と顔を合わせて

「はじめに、人間が創造されてエデンの園に置かれたとき、彼は自分の創造主や天使たちと顔と顔を合わせて話すことができた。罪が入ったとき、この特権は取り上げられた。人間は死の支配される者となり、神のすばらしい栄光を見ることも、またこのかたのご臨在のうちに生きることもできなくなった。」(クリスチャン経験と教訓p237)

「わたしは、もしわが救い主と顔と顔を合わせてお会いすることさえできるなら、完全に満たされる。」(ライフ・スケッチp443)「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」(コリント第一13:12)。

イエスの心からの願い

「イエスはご自分の犠牲が天父によって受け入れられたことを知り、民の罪のための贖いが完全にして充分であり、その血によって彼らは永遠の生命を得られるということの保証を、神ご自身からお受けになるまでは、ご自分の民から誉れを受けるのを拒否された。イエスはすぐに天へ上っていかれ、神の御座の前に出られて、額や手足についた恥と残虐行為の痕跡をお示しになった。ところが、イエスは栄光の冠と王衣を身につけるのを拒まれ、ご自分の供え物が受け入れられたことを天父が表明なさるまでは、マリヤが敬意をささげるのを拒まれたように、天使たちの崇敬をも拒まれた。イエスはまた、地上にいる、ご自分の選ばれた者たちについてある懇願をなさった。今後、ご自分に贖われた者たちが、天と天父に対して維持すべき関係が、明確に定義されることを望まれた。天来の誉れを受けられる前に、ご自分の教会が義と認められ、受け入れられねばならなかった。ご自身がおられる所に教会をおらせることが、ご自分の意志であることを宣言なさった。ご自分が栄光をお受けになるのなら、そのみ民がそれを共に受けねばならない。地上でご自分と共に苦しむ者たちが、ついにはご自分と共に御国を治めなければならない。最も率直な態度で、キリストは教会のために懇願なさった。ご自分の関心事を彼らのそれと一つにし、死よりも強い愛と不変性をもって、ご自分を通して獲得されるべき彼らの権利と資格を擁護なさった。」(SDAバイブル・コメンタリ[E.G.Whiteコメント]5巻p1150)

イエスに会う備えをせよ!

「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12)。「人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」(ルカ21:36)。「親愛なる若い読者たちよ、イエスにお会いするために徹底的な準備をし、このかたが来られた時には、喜びをもって『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる』との叫びをあげられるようにしなさい。」(ユース・インストラクター1854.4.1)。
「不信仰が、雲に乗って力と大いなる栄光のうちに来られるキリストの再臨の確実さに変

化をきたすということはない。…朽ちることのない命の冠は、天で贖われた者たちのために用意されている。彼らは、天で神につける王と祭司になるのである。これがわたしたちの前に置かれた希望である。何という希望だろう!ああ、すべての人が、キリストの来臨のために準備できるように!神はあなたを勝利者として下さる。」(説教と講話2巻p178,179)

行って、場所の用意ができたならば…品性建設

「『行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている』(ヨハネ14:3,4)。あなたがたのためにわたしは世に来た。わたしはあなたがたのために働いている。わたしが去っても、わたしはあなたがたのために熱心に働くのである。わたしは、あなたがたが信じるようにわたし自身をあなたがたにあらわすために世に来た。わたしは、あなたがたのために天父と協力するためにみもとに行くのである。…主はもう一度来て、彼らをみもとに受け入れるように、彼らのために場所を用意しようとしておられた。主が彼らのために住居を作っておられる間に、彼らは天の型にかたどって品性を築くのであった。」(各時代の希望下巻p144,145)
「この世は、神がわたしたちを天の宮のために形づくられる仕事場である。このかたは、ごつごつやでこぼこが取り除かれて、わたしたちが天の建物でしかるべき場所にふさわしくなるまで、わたしたちの揺れ動く心に率直な刃物をお用いになる。苦難や悩みによって、クリスチャンは精錬され、強められて、キリストが与えてくださった模範にしたがって品性を発達させるのである。」(驚くべき愛p89)
「わずかな、断片的な努力によっては誤りを正すことも、行いを改めることもできない。品性を築くのは一日や一年の仕事ではなく、一生の仕事である。自己に打ち勝ち、きよくなり、天国にはいるための戦いは一生の戦いであって、絶えざる努力と活動なしには、神聖な生活の進歩も、勝利者の冠を獲得することもできない。高い状態から人間は堕落したという最大の証拠は、元の状態に帰るのにこれほど努力がいるという事実である。帰路を獲得することができるのは、ただ一足一足、一時間一時間ごとに激しく戦うことによってのみである。一瞬間の軽率、不注意な行動によって悪の力に支配されることがあるが、その鎖を破ってさらにきよい生活に達するには一瞬間ではできないのである。決心ができ、実行し始めても、それを完成するには苦労と時間と不屈の努力と忍耐と犠牲がいる。」(ミニストリー・オブ・ヒーリングp434)

「聖書に啓示された最も厳粛で、最も輝かしい真理の一つは、キリストが、贖罪の大きな業を完成するためにふたたび来られるという真理である。長い間、「死の地、死の陰」をたどってきた神の旅人たちにとって、「よみがえりであり、命で」あり、「追放されたものを帰らせ」られる主の出現の約束は、尊く喜びに満ちた希望であった。キリストの再臨という教義は、聖書の基調そのものである。われわれの祖先が、悲しみながらエデンを去った日以来、信仰の子供たちは、約束のみ子が現われて、破壊者の力をこぼち、失われた楽園に彼らをふたたび連れもどすのを待っていた。」(各時代の大争闘上巻p385)
「キリストの犠牲はわれわれの望みの中心である。この上に、われわれの信仰をすえなければならない。」(各時代の希望下巻p139,140)
「このかたの再臨は、わたしたちの希望である。この希望は、わたしたちのすべての言葉や働きに、またすべての交わりや関係に結びつけられなくてはならない。…わたしたちは祝福に満ちた望み、すなわち、わたしたちの主、救主イエス・キリストの栄光の出現のために、待ち、望み、祈る寄留者であり旅人である。もしわたしたちがこれを信じ、これをわたしたちの実生活に持ちこむならば、この信仰と希望によって何という力にあふれた行動が奮い起こされることであろう。どれほど互いを熱く愛することであろう。神の栄光のためにどれほど注意深く聖い生活を送ることであろう。そして、わたしたちは与えられる報いを尊び、わたしたちと世の間には、何というはっきりとした境界線が見られるようになることであろう。キリストが来られるという真理は、すべての人の思いにいつもとどめておかなくてはならない。」(伝道p220)
「[パウロ]は、地上でのキリストのみわざと、天の聖所におけるお働きをこえて、キリストが仲保者の仕事を完成されて、この地上に再び力と大いなる栄光をもって来られ、王国を建設されるというその時に、聞く人々の心を向けさせた。」(患難から栄光へ上巻p246)

再臨の光景

「まもなく、わたしたちの目は東へと向けられた。なぜなら、そこに小さい黒雲が人の手ほどの大きさで現れたからである。わたしたちは、それが人の子のしるしであることを知っていた(マタイ24:30)。わたしたちは皆、静粛にこの雲がますます近く、明るく、そして、輝きを増し、栄光を帯び、ますます栄光に満ち、大きな白い雲となるまで見つめていた(黙示録14:14)。下の方は火のように見え、にじがその上にかかり、雲のまわりには千々の天使たちが最も美しい歌を歌っていた。そしてその上には人の子が座しておられた(ルカ21:27参照)。そのみ頭には多くの冠があり(黙示録19:12)、このかたの髪の毛は白く巻いて肩にかかっていた(黙示録1:14)。このかたの足は火のようで(黙示録1:15)、このかたの右手には鋭いかまがあり(黙示録14:14)、また左手には銀のラッパがあった(テサロニケ第一4:16)。このかたの目は燃える焔のようであり(黙示録1:14)、ご自分の子らをくまなく探られた。…そしてイエスの銀のラッパが鳴り響き、このかたが焔に包まれて雲の上に下りてこられたとき(テサロニケ第二1:7,8)、眠っている聖徒たちの墓をご覧になってから、ご自分の目と両手を天へ上げて、大声で叫ばれた(ヨハネ5:25)。起きよ!起きよ!起きよ!ちりの中に眠れる者よ、立ちあがれ。そのとき、大きな地震があった。墓は開かれ、そして死人が不死をまとって出てきた。144,000人は、死に別れていた自分たちの友人を認めてハレルヤ!と叫んだ。そして、同時にわたしたちも変えられ、空中で主にお会いするために彼らと共に引き上げられた(テサロニケ第一4:17)。わたしたちは皆雲の中に入り、そしてガラスの海まで7日かけて上って行った。…」(小さな群れへp14)
「キリストは、力と大いなる栄光をもって来られる。彼は、ご自分の栄光と父の栄光とをもって来られる。彼は、すべての聖天使とを率いてこられる。」(キリストの実物教訓p396)

にせもの

「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また『あそこにいる』と言っても、それを信じるな」(マタイ24:23)。
「欺瞞の一大ドラマの最後を飾る一幕として、サタンはキリストを装うであろう。教会は、救い主の来臨を教会の望みの完成として期待していると長い間公言してきた。今や大欺瞞者は、キリストがおいでになったように見せかける。地上のあちらこちらで、サタンは、黙示録の中でヨハネが述べている神のみ子についての描写に似た、まばゆく輝く威厳ある者として人々の中に現われる(黙示録1:13-15参照)。彼をとりまいている栄光は、これまで人間の目が見たどんなものも及ばない「キリストがこられた、キリストがこられた」という勝利の叫びが、空中に鳴り響く。人々が彼をあがめてその前にひれ伏すと、彼は両手をあげて、キリストが地上におられた時に弟子たちを祝福されたように、彼らに祝福を宣言する。彼の声は柔らかく穏やかで、しかも美しい調べに満ちている。やさしい同情のこもった調子で、彼は、救い主が語られたのと同じ祝福に満ちた天の真理を幾つか述べる。彼は人々の中の病人をいやし、それから、キリストらしくみせかけながら、安息日を日曜日に変えたことを主張し、すべての人に対して、自分が祝福した日を聖とするようにと命じる。彼は、あくまでも第七日をきよく守り続ける者は、光と真理とをもって彼らに遣わされたわたしの天使たちの言うことを聞かないで、わたしの名を冒涜している者だと宣言する。これは強力な、ほとんど圧倒的な惑わしである。魔術師シモンに欺かれたサマリヤ人のように、多くの人々は、小さい者から

大きい者にいたるまで、これらの魔術に心を奪われて、この人こそは「『大能』と呼ばれる神の力」であると言う(使徒行伝8:10) 。
しかし、神の民は欺かれない。このにせキリストの教えは聖書と一致していない。彼の祝福は、獣とその像を拝む者、すなわち、神のまじりけのない怒りがその上に注がれると聖書が断言しているその人々に対して、宣言されているからである。
さらに、サタンにはキリストの来臨のありさまをまねることは許されない。救い主はこの点についての惑わしに対してご自分の民に警告し、再臨のありさまをはっきりと予告された。…(マタイ24:24-27、31、25:31、黙示録1:7、テサロニケ第一4:16、17参照)。この来臨はまねることが不可能である。それは世界じゅうに知られ、全世界の人々が目撃するのである。」(各時代の大争闘下巻p398-400)

すばらしい贖いのみわざ

「わたしたちが、神の御子が人類のすべての罪を身に受けられた十字架を熟考するとき、贖いの奥義がすばらしいものに見える。イエスはわたしたちに神の愛を指し示される。御父は、わたしたちを愛されるゆえにこの供え物をお与えになった。それは、仲保者をおいて、そのかたを通してご自分が人間に、また人間がご自分に和解され得るためであった。そしてこのすばらしいあがないの働きに献身してこられたわたしたちの主は、この計画を成し遂げるために必要なものは何一つ惜しまれないのであった。このかたは、人間のために全天をこの一つの偉大な賜物のうちに注ぎ出して下さった。そして人間を限りない祝福で取り囲み、恩寵に次ぐ恩寵、賜物に次ぐ賜物、わたしたちの前に来るべき世界の宝をすべて開くことによって、この働きを完成してくださったのである。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1891.8.17)
「神の御子の大犠牲は、この働きを成し遂げるのに、大きすぎることも小さすぎることもなかった。神の知恵において、これは完全であった。そしてなされた贖罪はアダムのすべてのむすこ娘たちに神の律法の不変性を証している。エホバの律法の価値はその神聖さを保つために神の御子の死において払われた計り知れない価によってのみ評価されるべきである。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1889.12.30)

二人のアダムが出会う…

「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである」(ローマ5:18,19)。「贖われた人々が、神の都に迎え入れられるときに、喜ばしい賛美の叫びが空に響きわたる。今、二人のアダムが会おうとしているのである。神のみ子は、立って手を広げ、人類の祖先を抱こうとしておられる。神のみ子が、この人を創造された。その彼が創造主に罪を犯した。そして、彼の罪のために、救い主の体に十字架の傷が負わされたのである。アダムは、残酷な釘のあとを見て、主の胸にはよりかからず、恥じいって主の足もとにひれ伏し、「ほふられた小羊こそは・・・・さんびを受けるにふさわしい」と叫ぶのである。救い主は、やさしく彼を抱き起こして、彼が長い間追放されていたエデンの故郷をもう一度見るようにとお命じになる。…
アダムが堕落したときに涙を流し、イエスが復活後、み名を信じるすべての者のために墓を開いて、天に昇られたときに喜んだ天使たちが、この再会を目撃する。今彼らは、贖罪の働きの完成を目撃し、賛美の歌に彼らの声を合わせるのである。」(各時代の大争闘下巻p427-430)