キリストは、「世の初めからほふられた小羊」でした。このすばらしい真理は、主からサタンに対して語られたみ言葉の中で、はじめの両親に知らされました。「彼(女のすえ)はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」

人が罪のない神のひとり子の命を奪う罪の極悪さを悟ることができるように、彼は無垢な小羊を連れてきて、自分の罪をその頭上に告白し、それから自分自身の手でキリストの命の型であるその命を奪うことが要求されました。この罪祭は焼かれましたが、これは、キリストの死を通して、すべての罪が最終的には最後の日の火で滅亡させられることを象徴していました。

罪の闇に囲まれていたために、人間にとってこれらのすばらしい天の真理を理解することは難しいことでした。天の聖所から簡素な犠牲の上に輝いていた光線は、疑いや罪によってあまりにもぼんやりとしていたため、神はその大いなる愛と恵みのうちに、天の原型にしたがって地上の聖所を建てさせられました。そして、「天にある聖所のひな型と影とに仕えている」祭司たちが任命されたのです(ヘブル8:5)。これは、人間の信仰が、天には人間のあがないのための奉仕がなされている聖所があるという事実をつかむようにするためでした。預言者エレミヤは、この大いなる真理をつかんで、叫びました、「初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である」(エレミヤ17:12)。ダビデは神が天で住まわれる場所を知っており、彼が後の世代のために記していたとき、「主はその聖所の高き所から見おろし、天から地を見られた」と言いました(詩篇102:19英語訳)。忠実な者たちが全心をもって神を求めたときにはいつでも、自分たちの「祈は主の聖なるすみかである天に達した」のを理解したのでした(歴代志下30:27)。

愛された弟子ヨハネに栄光の宮の幻が多く与えられました。彼は、金の香壇の上で、地上の生徒たちの祈りに芳しい香が混ぜ合わされて神の御前にささげられるのを見ました。至聖所への幕が上げられて、彼は「天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた」と記しました。キリストがご自分の血を御父のみ前に罪深い人間のために嘆願しておられるのは、この「人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所」においてです。

天の聖所は、エホバの偉大な発電所です。そこから、サタンの誘惑一つ一つに勝利するためのあらゆる必要な助けが、信仰によって聖所につながっている各人に送られます。天の荷を積んで、細い腕を上にある電線に届かせている電車は、クリスチャンを良くあらわしています。このつながりが切れない限り、もっとも闇の深い夜も、電車が起伏のある丘陵をなめらかに走るように、すぐ前の線路を照らすだけでなく、明るい光線を闇のこなたかなたに投げかけながら走ります。しかし、このつながりが切れるや否や、なんという変化が起こることでしょう!電車は闇の中に前に進むことができずに立ちすくむのです。

天の聖所におられるわたしたちの大祭司キリストもまた同様に、信仰によって上に手を伸ばし、提供されている助けをつかむ一人びとりの手をしっかりとつかむために、ご自分のみ手を天の胸壁から下へ伸ばしておられます。そしてその信仰によって助けをつかむ者は、困難の最も険しい山をも安全に通ることができます。彼自身の魂が光に満たされているので、その光と祝福を他の人々へと放ちます。彼が信仰によって、神をしっかりとつかんでいる限り、彼は天の聖所から光と力を受けます。しかし、もし彼が疑いや不信によってこのつながりが切ってしまうならば、彼は闇の中にいて、自分が進めなくなるだけでなく、ほかの人の道をもふさぐつまずきの石となるのです。
「キリストは天の聖所におられる。そして、そこで民のために贖罪の働きをしておられる。このかたはご自分の傷ついた脇と刺し通されたみ手とをご自分のみ父に示すためにそこにおられる。このかたはそこで、地上にあるご自分の教会のために嘆願しておられる。このかたは聖所を民の罪から清めておられる。わたしたちのなすべき働きは何であろうか。キリストの働きに調和することがわたしたちの働きである。信仰によって、わたしたちはこのかたとともに働かなくてはならない。このかたに一致しなくてはならない。」(レビュー・アンド・ヘラルド1890.1.28)
「イエスは罪人を罪のうちにではなく、罪から救い、彼らを真理によって聖別するためにこの世にこられた。それは、ご自分がわたしたちにとって完全な救い主となられるためであった。わたしたちは、個人的に信仰を働かせることによって、このかたとの結合に入らなくてはならない。キリストはわたしたちをお選びになった。わたしたちはこのかたを選んだ。そして、この選択によってわたしたちはこのかたと一つになり、これから先、自分たちのためにではなく、わたしたちのために死なれたかたのために生きるのである。しかし、この結合は、たゆまない警戒によってのみ守られる。さもなければ、わたしたちは誘惑に陥り、別の選択をするようになる。なぜなら、わたしたちは望むならばいつでも、別の主人を選ぶ自由があるからである。キリストとの結合とは、わたしたちが生活のあらゆる行動と思想において、揺らぐことなく常にこのかたを優先するということである。働きのあらゆる局面で、救い主と救われるべき者との間に調和がなくてはならない。信仰は神のすべてのご要求のうちに愛をみとめて、天のみ旨に従う。『神を愛する者たち、・・・と共に働いて、万事を益となるようにして下さる』ことを知っているからである。わたしたちが、キリストと一致して、ついにはこのかたの栄光に共にあずかりたいのであれば、この完全な信頼をいだかなくてはならない。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1888.3.23)

「この世においては、われわれは、贖いという驚嘆すべきテーマについてほんの初歩のことしか理解できない。辱しめと栄光、いのちと死、公平とあわれみとが、十字架において出会ったことを、われわれの有限な理解力でどんなに熱心に探り調べてみても、そしてわれわれの知力のかぎりを尽くしてみても、われわれはその意味を十分につかむことはできない。贖いの愛の長さ、広さ、深さ、高さは、かすかにしか理解されない。贖いの計画は、贖われた者たちが、見られているように見、知られているように知る時においてさえ、十分には理解されない。そして、永遠にわたって、新しい真理がたえず示されて、心は驚きと喜びに満たされるのである。地上の嘆き、痛み、誘惑は終わり、その原因は除かれても、神の民は、自分たちの救いのためにどんな価が払われたかということについて、はっきりした理解を持ち続けるのである。
キリストの十字架は、永遠にわたって、贖われた者たちの科学となり歌となる。栄光につつまれたキリストのうちに、彼らは、十字架につけられたキリストを見る。広大な空間に、数えきれないほどの諸世界を、その力によって創造し、支えておられるおかた、神の愛するみ子、天の大君、ケルビムや輝くセラピムが喜んであがめるおかた、そのおかたが、堕落した人類を救うために身を卑しくされたことは、決して忘れられることがない。また彼が、罪の苦痛と恥とを負われ、天父からはそのみ顔を隠されて、ついには失われた世界の苦悩がその心臓を破裂させて、カルバリーの十字架上でその命を絶たれたことは、決して忘れられることがない。諸世界の創造者、すべての運命の決定者が、人類に対する愛から、ご自分の栄光を捨てて、ご自分を卑しくされたことは、いつまでも宇宙の驚嘆と称賛の的となる。救われた諸国民が、贖い主を見て、そのみ顔に天父の永遠の栄光が輝いているのをながめるとき、また、永遠から永遠にいたるイエスのみ座をながめ、イエスのみ国には終わりがないことを知るとき、彼らはどっと歓喜の歌声をあげて、『ほふられた小羊、ご自身の尊い血によって、わたしたちを神に贖って下さったおかたは、賛美を受けるにふさわしい、賛美を受けるにふさわしい』と叫ぶのである。
十字架の奥義は、他のすべての奥義を説明する。カルバリーから流れ出る光に照らして見るとき、われわれのうちに恐怖と畏敬の念を満たした神の属性は、美しい、人を引きつけるものに見える。あわれみ、やさしざ、父としての愛情が、聖潔、公平、力と入りまじって見える。われわれは、高くかかげられた神のみ座の威光をながめる一方では、神のご品性の恵み深いあわれみを見て、『われらの父よ』というあの永遠に続く称号の意味を、いままでになく理解するのである。
限りない知恵を持っておられる神は、われわれの救いのためには、み子の死よりほかに方法を考え出すことがおできにならなかった。この犠牲に対する報いは、きよく幸福で不死の身となって贖われた者たちを、地に住まわせるという喜びである。救い主が悪の権力と戦われた結果は、贖われた者たちに与えられる喜びであり、永遠にわたって神にみ栄えを帰することである。魂にはこのように大きな価値があるので、天父は、払われた価に満足される。そして、キリストご自身も、その大きな犠牲の実をごらんになって満足されるのである。」(各時代の大争闘下巻p433-434)

神よ、あなたの道は聖所にあります

「神よ、あなたの道は聖所にあります。」(詩篇77:13英語訳)。
「イエスがわれわれのために仕えておられる天の聖所は、大いなる原型であって、モーセが建てた聖所は、その写しであった。神は、地上の聖所の建設者たちに、神の霊をお与えになった。その建設に当たってあらわされた芸術的技量は、神の知恵を表示していた。壁は、全体が巨大な金塊のように見え、金の燭台の七つのともし火の光が、四方に反射していた。供えのパンの机と香壇は、よくみがいた金のように輝いていた。天井になっていた華麗な幕には、青、紫、緋色で天使が織り出されて、いっそうの美しさを添えた。そして、第二の幕の向こうには、神の栄光の目に見える現われである聖なるシェキーナーがあり、大祭司以外のだれひとり、その前に立って生き得る者はいなかった。地上の聖所の比類のない壮麗さは、

われわれのさきがけであられるキリストが神のみ座の前で仕えておられる天の宮の栄光を、人間の目に映すものであった。王の王の住居において、彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々(ダニエル書7:10参照)。輝く守護セラピムが、崇敬のうちに顔を覆うところの、永遠のみ座の栄光に輝く宮に比べるならば、人間の手で造られた建造物は、たとえどんなにりっぱであっても、その壮大さと栄光のかすかな反映にすぎない。しかし、そうはいっても、天の聖所に関する重大な真理と、人間の贖罪のために行なわれた偉大な働きとは、地上の聖所とその奉仕によって教えられたのであった。」(各時代の大争闘下巻p126,127)
「天の聖所は、人類のためのキリストのお働きの中心そのものである。それは、地上に生存するすべての者に関係している。それは、贖罪の計画を明らかにし、われわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる。すべての者が、これらの問題を徹底的に研究し、彼らのうちにある望みについて説明を求める人に答えることができるようにすることは、何よりも重要なことである。」(各時代の大争闘下巻p222)

ひとりの魂の価値

「いったい、だれが一人の魂の価値を評価できるであろうか。もしその価値を知りたいと思うならば、ゲッセマネへ行って、血の大きなしずくのような汗を流して苦しまれたキリストと苦悩を共にするとよい。そして、十字架にかけられた救い主を見ることである。『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』というあの絶望の叫びを聞き、傷ついた頭、刺された脇、さかれた足を見なければならない。そして、キリストは、ここですべてのものを失う危険を冒しておられたことを忘れてはならない。わたしたちの贖罪のために、天そのものが危機におちいったのである。十字架の下に立って、キリストはただ一人の罪人のためでさえ、その命をお捨てになったのだということを考えるとき、初めて一人の魂の価値を正しく評価することができる。」(キリストの実物教訓p176,177)
「ひとりの魂には無限の価値がある。なぜなら、カルバリーがその価値を語るからである。ひとりの魂が真理に勝ち取られると、ほかの魂を勝ち取るための器となる。こうして、祝福と救いがたえず増し加わる結果がもたらされる。より大規模な集会にもし個人的な努力が欠乏しているようであれば、あなたの働きはそれらよりも多くの実益をもたらすことができる。神の祝福と共に両者が結合するとき、より完全で徹底した働きがなされるのである。しかし、もしわたしたちが一部しかできないのであれば、家々で聖書を開き、個人的な嘆願をなし、さほど重要でないことについてではなく、贖いの大主題について家族の人々と親しく語るという個人的な働きを選びなさい。あなたの心が魂の救いのために重荷を負っているということを彼らに見させなさい。」(レビュー・アンド・ヘラルド1888.3.13)「魂の贖いは尊い。キリストは、わたしたちの救いのために無限の値を支払われた。そしてこの大いなる犠牲の価値と魂の価値をを正しく評価する者はだれ一人として、ほかの人が神の差し出された恵みをさげすむからといって、自分もそれに倣うようなことはしないのである。」闘争と勇気p54)「魂の救いには、全世界よりも大きな重要性がある。永遠を通じて生きて神と小羊を讃美するために救われたひとりの魂には、何百万という金銭よりも価値がある。富は、キリストがそのために死なれた魂の価値と比べるとき、何の意味もなくなる。」(教会への証2巻p246)

天が考案なし得たもっとも高価な計画

「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3:15)「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)「神が人に置かれた価値を理解するためには、贖いの計画、すなわち永遠の破滅から人類を救うためにわたしたちの救い主が支払われた高価な犠牲を把握する必要がある。イエスは、ひとつの大変高価な真珠を再びご自分のものとなさるために死なれた。…主はわたしたちを罪からあがなうためにご自分のひとり子をお与えになった。…キリストの受肉の奥義、このかたの苦しみの価値、このかたの十字架、このかたの復活、このかたの昇天は、すべて神の驚くべき愛を全人類に明らかにしている。これが真理に力を与える。神のご性質がキリストの命とわざを通して知らされた。このかたは神のご品性を表しておられた。」(レビュー・アンド・ヘラルド1895.6.18)

イエスはわたしたちの贖罪の犠牲

「イエスはわたしたちの贖罪の犠牲であられる。わたしたちは、自分自身で罪の贖いをすることはできない。しかし、わたしたちは信仰によって、なされた贖罪を受け入れることはできる。『キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた』(ペテロ第一3:18)…わたしたちの贖い主があがないをわたしたちの手の届く範囲においてくださったのは、無限の犠牲と言い表しがたいほどの苦しみによってであった。このかたは、この世において敬われもしなければ、知られることもなかった。それは、このかたがその驚くべきへりくだりと屈辱によって人を高め、人が天の宮殿で永遠の誉れと不死の喜びを受けることができるようにするためであった。このかたは、その地上での30年のご生涯のあいだ、信じがたいほどの苦悶にみ心がしめつけられたのであった。かいば桶からカルバリーまでの道のりには悲嘆と悲しみが影を落としていた。彼は悲しみの人で、病を知っていた。人間の言葉では描写できないほどの心痛に耐えられたのであった。このかたは、実際『わたしにくだされた苦しみのような苦しみが、また世にあるだろうか』と仰せになることができるほどであった(哀歌1:12)。完全な憎しみをもって罪を憎まれながら、なお、全世界の罪をご自分の魂に集められた。罪のないかたが、罪人の刑罰を負われた。無実なかたでありながら、律法を犯した者たちの身代わりとしてご自身を差し出された。すべての罪の罪深さが世のあがない主であられる神の魂の上にのしかかった。アダムのすべてのむすこ娘の邪悪な思想、邪悪な言葉、邪悪な行いが、このかたに報いを求めた。なぜなら、このかたが人間の身代わりとなられたからである。罪の罪深さはこのかたのものではなかったにもかかわらず、このかたの霊は人間の不法によって裂かれ、打たれた。そして、罪を知らないおかたが、わたしたちのために罪となられたのであった。それは、わたしたちがこのかたのうちに神の義とされるためであった。」(セレクテッド・メッセージ1巻p321)
「神の律法を犯す者は必ず罰を受けるということは、神がみ言葉の中にはっきりと証拠を与えておられる。神は恵み深いおかたであるから、罪人を罰するようなことはなさらないと思い込んでいる者は、ただカルバリーの十字架をながめて見るとよい。汚れのない神のみ子の死が、『罪の支払う報酬は死である』ことと、神の律法を犯せばそれに相当する報いがあることとの、証拠である。」(各時代の大争闘下巻p289)「罪は、どんなに小さく思われたとしても、永遠の命の代価を支払わずに持ち続けることはできない。」(彼を知るためにp255)「ほんとうの敬虔さは、罪との妥協をすべて捨てる時にはじまる。」(祝福の山p112)

あなたは本当に罪を憎んでいるか?

「主を愛するあなたは、悪を憎む」(詩篇97:10英文訳)「わたしは全く彼らを憎み、彼らをわたしの敵と思います。」(詩篇139:22)
「救いを望む者は、自分の思いをカルバリーの十字架にしっかりとどめるべきである。罪人が、罪をなしたことを見ることができるのはそこである。そこで彼は、破られた神の律法の刑罰から自分を贖うために払われた無限の犠牲を見ることができる。違反者が自分の失われた状態を自覚するときに、彼はキリストのうちに自分の唯一の希望を見るのである。十字架から彼は、わたしたちのためにご自身を与えてくださった神のひとり子の命と、自己否定、自己犠牲、いつくしみ、恵み、そして愛の尊い教訓を学ぶ。カルバリーは神のご品性の比類なきご性質を描写する。罪人が十字架を見るとき、彼は罪を憎む。なぜなら彼は、天の大君を拒み、非難し、否定し、苦しめ、十字架につけたのが罪であったことを悟るからである。彼はひとり子という賜物のうちに全天を人間に与えてくださったみ父を愛する。彼の心は、神の知識と、救いの計画の理解を求めて熱心な切望で満たされる。十字架をまざまざととらえている者は、罪を憎み、義を愛する。彼の疑いはカルバリーの十字架から反射する明るい光の中に消え去ってしまう。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1888.7.6)「わたしたちがキリストの義で覆われるとき、罪に対する愛着がない。なぜなら、キリストがわたしたちの中で働かれるからである。わたしたちは間違いを犯すかもしれないが、しかし、神の御子を苦しませた罪を憎むのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1890.3.18)

しかり!すべての罪は焼かれる

「もし正しい者がこの世で罰せられるならば、悪しき者と罪びととは、なおさらである。」(箴言11:31)
「『万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。・・・その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。』(マラキ4:1)。一瞬のうちに滅ぼされる者もあり、多くの日の間苦しむ者もある。みな「彼らの行いにしたがって」罰せられる。義人の罪はサタンに移されたので、サタンは自分自身の反逆の罪だけでなく、神の民に犯させたすべての罪のために苦しむ。彼の受ける刑罰は、彼がだました者たちの刑罰よりずっと重い。サタンの欺きによって堕落した者たちがすべて滅びたのちも、彼はまだ生き残って苦しみを受ける。きよめの火によって、悪人たちは根も枝もついに滅ぼされた。サタンが根であり、サタンに従う者たちが枝である。律法の刑罰は全部くだり、正義の要求は果たされた。天と地はこれを見て、エホバの義を宣言する。」(各時代の大争闘下巻p459,460)
「サタンと彼に加わって反逆した者たちはみな切り倒される。・・・それから、『悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない』(詩篇37:10)。『彼らは・・・かつてなかったようになる』(オバデヤ16)。・・・地上が神の報復の火に包まれている一方で、義人たちは聖都の中に安全にとどまっている。第一の復活にあずかった者たちに、第二の死は力がない(黙示録20:6)。神は悪人に対しては焼き尽される火であるが、ご自分の民に対しては日であり盾であられる。(詩篇84:11)。悪人を焼き尽くす火は地上を清める。のろいは跡形なく消え去る。永遠の火炎地獄が罪の恐ろしい結果を絶えず贖われた者たちの目の前にとどめるようなことはない。」(主は来られるp348)

すべての罪から分離せよ!

「あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。」(エゼキエル18:31)「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。」(エゼキエル33:11)
「われわれが、キリストの贖罪の血を信じることによって、罪を捨て去らなければならないのは、現世においてである。われわれの尊い救い主は、われわれが彼と結合して、われわれの弱さを彼の力に、われわれの無知を彼の知恵に、われわれの無価値さを彼の功績に結びつけるよう招いておられる。神の摂理は、われわれがイエスの柔和と謙遜を学ぶ学校である。主はわれわれの前に、われわれが選ぶ安易で楽しく思われる道ではなくて、人生の真の目的を、常に置かれる。われわれの品性を天の型に形造るために神が用いられる手段に、われわれは協力しなければならない。このことを怠ったり、遅らせたりする者は、必ず魂を最も恐ろしい危険にさらすことになるのである。」(各時代の大争闘下巻p397,398)
「サタンは、神の民と世俗とをへだてている壁を取りこわすことによって、神の民に打ち勝とうと絶えず努めている。古代イスラエル人は、禁じられていた異邦人との交際に足を踏み入れたときに、罪に誘惑された。同じようにして現代のイスラエルも道から外れて行く。「この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(コリント第2.4:4)。断固としてキリストに従う決心をしていないものは、サタンのしもべである。生まれ変わっていない者の心には、罪を愛する思いがあり、罪を抱いてその言いわけをする傾向がある。生まれ変わった心には、罪に対する憎しみと、それに対する断固とした抵抗がある。キリスト者が、神を恐れない不信仰な人々と交わることは、誘惑に身をさらすことである。サタンは姿をかくして、ひそかに彼らの目に、彼の欺瞞のおおいをかける。彼らは、このような連れがいて彼らに害を与えようとしているとは気づかず、品性、言葉、行動において、常に世俗に同化していき、ますます盲目になってしまうのである。」(各時代の大争闘下巻p247,248)

キリストの罪のない生涯を通して確保される勝利

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)
「救い主は自ら人間の弱さを受け、罪のない生涯を送られたが、それは、人性の弱さのために勝利することができないと人間が恐れるようなことがないためであった。キリストはわたしたちが、『神の性質にあずかる者』となるために地上においでになった。そして、人性が神性と結合するとき、罪を犯さないということをその生涯は物語っている。救い主は、人間がどうして勝利を得るかを示すために勝利された。キリストは、サタンのすべての誘惑に対して神のみ言葉をもって応じられた。神の約束に信頼なさって、神の律法に服従する力をお受けになったため誘惑者は勝つことができなかった。一つ一つの試練に対するイエスの答は『・・・・と書いてある』であった。神はわたしたちが悪に抵抗するためにそのみことばをお与えになった。「世にある欲のために滅びることを免れ神の性質にあずかる」ために大いなる尊い約束が与えられている(ペテロ第2・1:4)。
誘惑にあっている人には、周囲の事情、自己の弱さ、誘惑の力などに目をむけたりせず、神のみ言葉の力をながめるように教えなさい。その力はすべてわたしたちのものである。詩篇記者は『わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。』また『あなたのくちびるの言葉によって、わたしは不法な者の道を避けました』と言っている(詩篇119:11、17:4)。)(ミニストリー・オブ・ヒーリングp156)「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。」(黙示録3:21)
「勝利する働きは偉大な働きである。わたしたちは活力と忍耐とをもってこれに取り組まないのであろうか。わたしたちがそうしない限り、『汚れた衣』がわたしたちから取り去られることはない。わたしたちは、それらがわたしたちから乱暴に引き裂かれるなどゆめ期待してはならない。わたしたちがまず、それらが自分の身から取り除かれることを望んでいることを示さなくてはならない。わたしたちは、キリストの血の功績により頼んで、自分たちから罪が分離するよう努力しなくてはならない。そうするとき、敵がわたしたちを圧迫する苦悩の日に、わたしたちはみ使たちの間を歩くのである。彼らはわたしたちの周りで火の垣のようになる。そしてわたしたちはいつか神の都で彼らと共に歩むのである。
罪に誘惑されるとき、イエスが天の聖所でわたしたちのために嘆願しておられることを覚えていよう。わたしたちが自分の罪を捨てて、信仰のうちにこのかたのみ許に来るとき、このかたはわたしたちの名をその唇に取り上げて、それらをみ父に提示し、『わたしは彼らをわたしの掌に彫り刻みました。わたしは彼らをその名をもって知っています』と仰せになる。そしてみ前からみ使たちに彼らを守るようにとの命令が下る。そして火のような試練の日に、このかたは、『さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ』と仰せになるのである。彼らが隠れるべき部屋とは何であろうか。それは、キリストと聖天使たちの保護である。・・・神の民がこのかたのみ約束を主張する必要が今ほど大きかったことはかつてなかった。信仰の手を伸ばして闇を突き抜け、無限の力のみ腕をつかもう。わたしたちは罪から分離する必要を語るとき、キリストは罪人を救うためにこの世に来られたのであり、そして『彼によって神に来る人々を、極みまで救うことができる』ことを覚えていなさい。このかたの血はわたしたちをすべての罪のしみや汚点から清めることができるということを信じるのは、わたしたちの特権である。わたしたちはイスラエルの聖者のみ力を制限してはならない。この方はわたしたちがありのまま、罪深く汚れたままでご自分のみ許に来るよう望んでおられる。このかたの血には力がある。わたしはこのかたのみ霊を罪のうちにとどまり続けることによって悲しませないようにとあなたに嘆願する。もし、あなたが誘惑に陥っても、失望してはならない。この約束がわたしたちの時代にまでこだましている。『もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。』わたしは、この一つの約束のためだけにでも、死すべき人間の唇から絶えず感謝の讃美がのぼるべきだと感ずる。これらの尊いみ約束の宝石を集めよう。そして、サタンがわたしたちの大きな罪深さを責め立て、神の救うみ力を疑うように誘惑するときには、キリストのみ言葉を繰り返そう。『わたしに来る者を決して拒みはしない。』」(ヒストリカル・スケッチp158)
「勝利の働きはわたしたちの手の内にある。しかしわたしたちは自分自身の名と力で勝利するのではない、なぜなら、わたしたちは自分自身では神の戒めを守ることができないからである。神の御霊がわたしたちの弱さを助けてくださらなくてはならない。キリストはわたしたちの犠牲、また保証となられた。このかたはわたしたちが、ご自分のうちに神の義となることができるように、わたしたちのために罪となられた。このかたのみ名を信じる信仰を通して、キリストはわたしたちにご自分の義をお与えになる。そしてそれがわたしたちの生活において生きた原則となる。・・・キリストはわたしたちに罪のない品性を与え、わたしたちをご自身の純潔のうちにみ父に提示なさるのである。」(彼を知るためにp302)

ほふられた小羊こそはふさわしい

「人類のあがないの代価は、贖われた者たちが、贖い主とともに神の御座のそばに立つときまで、決して完全に悟ることはできない。そして、彼らが不死の命の価値と永遠の報いを正しく評価できるようになるとき、彼らは勝利と不朽の凱旋の賛美へと盛り上がるのである。

『大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」、またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」』とヨハネは言っている。」(コンフロンテーションp55-56)「わたしたちの贖いの代価は、贖われた者たちが贖い主とともに神の御座の前に立つ時まで決して悟ることはできない。そのとき、永遠の故郷の栄光が、歓喜しているわたしたちの前に突然現れるとき、わたしたちは、イエスがこれらすべてをわたしたちのために捨ててくださったことや、また天の宮廷からのさすらい人となられたばかりでなく、わたしたちのために失敗と永遠の損失という危険をおかしてくださったことを思い出すのである。そのとき、わたしたちはこのかたの足元に冠を投げ出して『ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい』歌声を上げるのである。」(各時代の希望上巻p145)「彼らが大声でホザナを歌い、勝利のしゅろの枝を振っている声を聞きなさい。次の言葉を彼らが歌うとき、豊かな調べが天を満たす、『ほふられ永遠によみがえられた小羊こそはふさわしい。御座に座しておられる神へと小羊への救い』。そして、天の万軍、天使たち、蔽うところをなすケルビムと栄光のセラピムたちはこの喜びと勝利の歌の調べに答えて、『アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン』と言うのである(黙示録7:12)。」(天国でp371)「信仰によって、勝利する者たちの上におかれる冠を見なさい。贖われた者たちの歓喜の歌を聞きなさい。ほふられ、わたしたちを神へとあがなってくださった小羊こそはふさわしい!これらの場面が現実のものとしてとらえるよう努力しなさい。クリスチャンの最初の殉教者ステパノは、支配と、権威にとまた天上にいる悪の霊に対する恐ろしい戦いの中で、叫んでいった『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』。世の救い主が、天から彼を深い関心をもって見下ろしておられるのが、彼に示された。そして、キリストの顔の栄光の光がステパノの顔にあまりにも明るく輝いたので、彼の敵たちでさえ、彼の顔が天使の顔のように輝いているのを見たのであった。わたしたちは、もし自分の思いにもっとキリストと天の世界について考えることを許すならば、主の戦いを闘うときに、力強い激励と支えとを見出すのである。誇りと世の愛着は、わたしたちがまもなく我が家となるさらに良い地の栄光を熟考するとき、その力を失う。キリストの麗しさをのぞいては、あらゆる地上の魅力はほとんど価値のないものと映るであろう。」(レビュー・アンド・ヘラルド1887.11.15)「ああ!神はわたしたちをお忘れにならないのに、わたしたちはなんとたやすく神を忘れてしまうことであろう。このかたはそのみ恵みをもってわたしたちを毎刻訪れてくださる。わたしたちは、神に忘れられることは実に災いだと感じるであろう。しかし、わたしたちの贖い主は、『見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ』と仰せになる。大切なみ手を刺し貫いたくぎで、ご自分の子らを深く彫り刻み、み父にそのみ手を示しておられる。このかたは、わたしの功績を受け入れる者がわたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。彼らが、わたしが無限の価をもって彼らのために用意した住まいを楽しむことができるようにしてくださいと仰せになる。そして、天使の歌がほふられた小羊こそは、ふさわしい、ふさわしい、ふさわしい。そして、すべての権力、力、支配と栄光を持っておられると、全天に鳴り響くのである」(レビュー・アンド・ヘラルド1880.2.26)。

「キリストの十字架は、永遠にわたって、贖われた者たちの科学となり歌となる。」(各時代の大争闘下巻p433)