罪は、私たちにとって大きな問題です。美しい自然界の中に、自分だけでは生きることのできない寄生植物があるように、罪は人間の命の中に寄生しています。罪は、聖書が教えるサタンまたは悪魔から始まりましたが、この罪の創始者であるサタンは、その罪を神のかたちにかたどって造られた人間に寄生させました。そして、それはちょうど、他の植物がなければ存在することのできない寄生植物のように、人類の歴史とともに息づいてきたのです。なぜ、罪は大きな問題なのでしょうか。それは、すべての問題の原因となる根であるからです。戦争によって、何千何万もの人々が殺され、泣き叫ぶ子どもや婦人たちの悲劇は、罪から始まっています。罪が根絶されないかぎり、この地上に平和が存在することはできません。あなたは、罪を犯した体験がありますか。人は知りながら、あるいは知らずに罪を犯します。知らずに罪を犯すことは、悲惨なことです。しかし、知っていながら罪を犯すことはさらに悲惨です。知っていながら犯す罪を、聖書は、「故意の罪」(詩篇19:13)と呼んでいます。それは、ふたたび「神のみ子を自ら十字架につけ」(へブル6:6)ることだからです。罪とは何でしょうか。それが何であっても、罪は莫大な金額を無駄に費やし、多くの人々の心を恐怖で満たします。「罪は不法である」(第一ヨハネ3:4)。「罪の起源を説明することは不可能である。…罪は侵入者であってその存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる。もし罪の言いわけがあったり、その存在の原因を示すことができたら、それはもはや罪ではなくなる。罪についての唯一の定義は、神のみ言葉のうちに与えられている定義である。それは『罪は不法である』ということである。すなわち罪は、神の統治の基礎である愛という大法則と闘っている原則が、外にあらわれた結果である。」(各時代の大争闘 下巻 p228)。

災害や戦争より、もっと悲惨なことが私たちのまわりを取り囲んでおり、肉体的疾病よりもっと痛みを与えるものがありますが、それは罪意識を感じ、休むところを探すことのできない人間の心の問題であります。そうです。罪は、人間のもっとも大きな問題です。それだけではなく、神様にとっても、大きな問題なのです。神様は私たちとの密接な交わりを願っておられます。しかし、罪が神様から私たちを引き離したために、その分離を解消してふたたび交わるためには、罪をなくさなければなりません。そうであれば、罪を取りのぞく事が、なぜそれほど大きな問題となるのでしょうか。早ければ早いほど良いのに、なぜ神様は罪を取り除かれないのでしょうか。人間は、自発的に罪を犯したのですから、罪からの分離も、罪人の自由意志に基づくものでなければなりません。もちろん、神様も早くこの罪をなくしたいと願っておられます。しかし、何が神様にとって問題であるかを、考えてみましょう。神様が愛される多くの人々が、この死のウィルスに感染しています。無限の愛である神様の心を満足させることのできる唯一の解決方法は、罪人を罪から分離させることだけです。これは可能でしょうか。神様は可能であると仰せになります。しかし、罪の創始者サタンは不可能であると主張します。あなたはだれを信じますか。神様は、罪の問題を解決なさる方です。

「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない」(イザヤ43:11)。「罪が入る前には、全宇宙には平和と喜びがあった。すべては創造主のみこころと完全に調和していた。神に対する愛が最高の位置を占め、お互いのあいだの愛はかたよっていなかった。」(各時代の大争闘 下228)。

「人間の堕落は、全天を悲しみで満たした。神に造られた世界は、罪ののろいでそこなわれ、不幸と死に運命づけられた者の住むところとなった。律法を犯した者には、のがれの道がないように思われた。天使は、讃美の歌をやめた。天の宮廷には、罪が引き起こした破滅をなげく声が満ちた。」(人類のあけぼの 上53)。「ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」(イザヤ59:2)。

罪が、神様と神様が愛される人々とのあいだを分け隔てたために、神様は罪を憎まれます。神様は罪を黙認なさることも、罪とともに住むこともおできになりません。神様は罪を根絶させねばなりません。「わたしたちの神は実に焼きつくす火である。」(ヘブル12:29)。そうしますと、罪に感染している人々を滅ぼすことなく、罪を根絶させるには、どうすればよいでしょうか。神様は、聖所から罪の問題を解決するためのご自分の驚くべき計画をあらわしてくださいます。すなわち、死のウィルスに感染している人間を滅ぼさずに、ただ罪だけを根絶することと、罪を分離させ、罪人を救う方法を聖所からあらわしておられます。それは尊い計画であり、すでに天は悲しみの長い時代にわたってその代価を払ってきました。しかし、あなたは価値のある存在です。それゆえキリストはあなたを救うために、ご自分を与えてくださいました。「私どもの贖いのために払われた価、私どものためにそのひとり子の死をさえお許しになった天の神の計り知れない犠牲を考えるとき、キリストによって私どもは非常に高潔な状態に到達することができるという観念を起さずにはおられません。霊感に動かされた使徒ヨハネは、滅び行く人類への天の父の愛の高さ、深さ、広さをながめて、心はただありがたさと敬虔の念でいっぱいになり、その愛の偉大さ、優しさを適当に表現する言葉を見出すことができないで、『わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか』(第一ヨハネ3:1)と世界に呼びかけています。人はなんと尊い価値をもっていることでしょう。罪を犯して人の子らは悪魔のどれいとなりましたが、キリストの贖いの犠牲を信ずることによって、アダムの子らはまた神の子となることができるのであります。キリストは人の性情をおとりになって人類を引き上げてくださいました。罪に落ちた人類は、キリストとつながってはじめて『神の子』という、その名にふさわしい尊い者となれるのであります。」

「このような愛に比べうるものはなにもありません。天の王子となるというのであります。なんと尊いみ約束でしょう。これは深い瞑想に価する主題であります。神を愛さなかった人類への類もない神の愛であります。この愛を考えるとき心はへりくだり、神の御旨のままに従うようになります。そして十字架の光に照らされて神のご性質を学べば学ぶほど神の恵みとあわれみを知り、神の公平と正義とゆるしとがひとつになっていて、放蕩むすこを思いやる母親にもまさる限りないやさしい愛の数しれない証拠を認めることができるのであります。」(キリストへの道 p11,12)。

 

罪の創始者

「どうして罪というものが起こったのか、なぜ罪があるのかということは、多くの人々の心を苦しめる問題である。人々は、悪の働き、その恐るべき結果である不幸と悲しみを見て、いったいなぜ限りない知恵と力と愛であられる神の主権の下にこうしたすべてのことが存在するのかと疑問をいだく。」(各時代の大争闘下227)。「キリストに次いで最も神から栄誉を受け、天の住民の中で最高の権威と栄光を与えられていた者から罪が始まった。ルシファーは、堕落する前は、清く汚れのない、おおうことをなすケルビムの中の第一位の者であった。…ルシファーは、神の恵みのうちにとどまって、全天使の愛と尊敬を受け、ほかの者たちの祝福となり創造主の栄えをあらわすために、その高貴な能力を働かせることができたのである。…ルシファーは、被造物の最高の愛情と忠誠心を神にささげようとしないで、彼らの奉仕と服従とを自分に向けさせようと努力した。」(各時代の大争闘下229,230)。ルシファー、すなわちサタンについて聖書は次のように証しています。「黎明の子、明けの明星(英文ではルシファー)よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。」(イザヤ14:12-15)。「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。」(黙示録12:9)。「サタンは罪の創始者であり、神のみ子の死を招いたあらゆる罪の直接の扇動者であるから、正義は、サタンが最後の刑罰を受けることを要求する。人間を贖い、宇宙を罪からきよめるキリストのみわざは、天の聖所から罪を取り除いて、これらの罪をサタンの上に置き、サタンが最後の刑罰を負うことによって閉じられる。」(人類のあけぼの上423)。

 

すべての罪の根

すべての罪の根、すなわち根源は、自分を愛することにあります。聖書は、「自分を愛する」(第二テモテ3:2)ことは、人を神の恵みから離れさせ、また多くの人を悩まし汚す苦い根となると教えています(へブル12:15)。神様はむさぼってはならないとお命じになりましたが、それは「すべての罪の根絶をはかるもので、罪の行為が生じる根源の利己的欲望を禁じている。神の律法に従って、他人の所有に対してよこしまな欲望をいだかない者は、同胞に対して悪い行為を犯すことはしないであろう。」(人類のあけぼの上361)。

 

罪とは何か?/利己心/法に背くこと

罪とは、神の原則を無視して、自己すなわち「私」を中心にして考え、語り、行動することです。次の聖句を読んでみましょう。「あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。」(イザヤ14:13-14)。「すべての罪は利己心である。サタンの始めの罪は利己心であった。彼は、自分を高めるために大きな権力を持ちたいと願った。」(3MR331)。「罪の中で利己心のような幅広い罪はない。それは、私たちの視野から救い主を隠すものである。それは、多くの者を汚すために心から涌き出る苦い根である。もしこの障害物が取り除かれたなら、私たちはなぜ救い主が私たちのために十字架にかけられて亡くなったかを理解するようになる。…利己心が私たちの経験から取り除かれるとき、私たちの生活にはどんな変化が見られるであろうか。その時、私たちがお互いの間で衝突することはなくなる。」(19MR142)。

もう一つの罪の定義は、聖書に次のように書いてあります。「罪は不法である。」(第一ヨハネ3:4)。「罪は律法に背くことである。これこそ罪の唯一の定義である。律法がなければ背くことはない。律法によって罪を知るからである。義の標準は非常に幅広く、すべての悪いことを禁じるのである。」(7BC951)。この他に罪に対して説明することができない多くのことがある。このことについて、霊感の書は次のように言っています。「罪は侵入者であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる。もし罪の言いわけがあったり、その存在の原因を示すことができたら、それはもはや罪ではなくなる。罪についての唯一の定義は、神のみ言葉のうちに与えられている定義である。それは『罪は不法である』ということである。すなわち罪は、神の統治の基礎である愛という大法則と戦っている原則が、外にあらわれた結果である。」(各時代の大争闘下228)

 

はじめの罪人

神のかたちにかたどって造られた始めの人、すなわち外見や品性がすべて神のかたちにかたどって造られた人間が、罪を犯してしまいました。創造の時、彼の性質は神の御心に調和し、その心は神の働きを理解することができました。彼の愛情は純潔であって、食欲と感情は理性の支配の下にありました。神の創造の作品であった人の犯罪と結果について、聖書は次のように証しています。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ5:12)。「始めのアダムは道徳的に自由な存在者であった。しかし、彼は自分の自由を誤用してしまった。彼は、自分自身を食欲に屈服させてしまった。彼は、不従順によって自分の純潔さを失ってしまった。彼は自分の自由意志によって罪人となり、神の恩恵から自分を離れさせてしまった。」(18MR113)。

 

罪がつくり出したもの

罪がつくり出したものは、まことに残酷なものであります。現代多くの人々は、罪に対して何の抵抗も感じないで生きていますが、罪の最終的結果が死であることを、聖書は明白に教えています。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、…死が全人類にはいり込んだのである」、「ひとりの罪過のために多くの人が死んだ」、「なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることにな」る、「ひとりの罪過によって、…死が支配するに至った」、「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められた」、「ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされた」(ローマ5:12-19)。「人間の堕落は、全天を悲しみで満たした。神に造られた世界は、罪ののろいでそこなわれ、不幸と死に運命づけられたものの住むところとなった。律法を犯したものには、のがれの道がないように思われた。天使は、賛美の歌をやめた。天の宮廷には、罪がひき起こした破滅を嘆く声が満ちた。」(人類のあけぼの上53)。「彼らの罪は、不幸が潮流のようにこの世界に流れ込む門を開いたのである。誘惑のときの、誤った一歩がどんな恐ろしい結果をもたらすかをだれが知ることができよう。…われわれの先祖の罪はこの世に罪と悲しみをもたらした。…彼らの性質は、罪のために堕落し、悪に抵抗する力が弱まり、サタンが容易に彼らに近づく道を開いたことを彼らは知らされた。…かつては、おだやかで一様だった気温も、今は、急激に変化するようになった。…花がしぼみ、葉が落ちるという死の最初の徴候を見て、今日、人びとが死者のために嘆く以上の悲しさを味わった。か弱い優美な草花が枯れるのは確かに悲しいことであった。」(人類のあけぼの上50,51)。

 

罪の支払う報酬

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23)。「義人の嗣業は生命であるが、悪人が受けるものは死である。…なぜなら、全人類が彼の罪の報いを受けているからである。永遠の生命と対照されているのは、『第二の死』である。」(各時代の大争闘下294)。

 

罪は愚かで腐敗した、憎まれるべき、恐ろしいものである

人の本性は、自分の嫌うことをしません。言いかえれば、好きなことをするということです。罪を犯す場合も同じです。ですから、神様が人の心のうちに罪に対する「恨み」(創世記3:15)を創造してくださらない限り、人は罪を犯し続けるのです。もし、ある人が、熱いスト-ブの上に自分の指をずっと置きながら、それが熱いと言っても、私たちは信じないでしょう。なぜなら、もし熱ければ、指を置き続けることはできないはずだからです。それと同じように、もし私たちが罪の真相を本当に知るなら、私たちはすぐにも罪から手を離すでしょう。神様にとって、罪がどのようなものであるかを聖書は次のように語っています。「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行なう者はない。」(詩篇53:1)。「悪しき者の道は主に憎まれ」(箴言15:9)、「悪人の計りごとは主に憎まれ」る(箴言15:26)。「人にとって罪を犯すことは非常に恐ろしいことである。またそれは、神の御子を自ら十字架につけてさらしものにすることである。私は、神様からあなたに伝えるメッセージをもっている。それは『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』である。」(14MR74)。

イエス・キリスト/罪の問題の解決者

聖書は私たちに、罪の問題を解決なさることができるのは、ただイエス・キリストだけであることをはっきりと教えています。なぜなら、その方だけが「罪に終わりを告げ」(ダニエル9:24)、「悪魔のわざを滅ぼす」(第一ヨハネ3:8)ことがおできになるからです。その方の誕生と使命について聖書は次のように言っています、「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」(マタイ1:21)。「わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。」(第一ヨハネ4:14)。私たちの救い主イエス・キリストは「救を施す力ある」(イザヤ63:1)方である。「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。」(第一ヨハネ3:5)。「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。」(第一ヨハネ3:8)。「私たちはすべての罪から私たちを救う完全な救い主のうちに喜ぶことができる。」(8MR228)。

 

罪からの分離

「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次ぎの句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る』。また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』」(第二テモテ2:19)。「去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。」(イザヤ52:11)。「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。」(第二コリント6:17)。「愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。」(第二コリント7:1)。「キリストの名を名乗るすべての人々は、すべての不義から離れるだろうか?ここに使われている言葉はいつもひどい形の罪を表わすのではない。それは、天において私たちが喜ぶことができないすべての行動を意味する。これらのすべての行動から私たちは離れるべきである。」(UL257)。「あなたは最も熱心に不滅の冠のために努力しないだろうか?あなたは罪を憎み、最も熱心に罪の恐ろしい罪深さを感じることができるように祈らないだろうか?あなたは神の子、すなわち天の王の死をもたらした罪を憎まないだろうか?常に心にとめなければならないことは、神が完全に憎まれるものが一つあり、それは罪であるということを覚えるべきである。それは、数千、否、数百万の魂を滅びに至らせる。それは彼らが罪を選び、また罪を犯すことによってサタンのかたちにかたどって品性を築くからである。そして彼らが悔い改めて罪を捨て、イエス・キリストを信じない限り、天に場所を得ることは決してできない。」(14MR73)。

 

罪のない生涯/人のための神の計画と理想

私たちは自分たちのための神の念願を理解する必要があります。それはこの地上における罪に汚されない生涯であり、また来世における永遠の義の生涯です。次の聖句から私たちは自分たちのための神様の御心を理解することができます。「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」(ヨブ1:1)。「私の命は、神と私の仲間に対してどのようなものだろうか?すべての人がこの厳粛な質問に答える必要がある。私たちの命は葉が枝に依存しているように神から受けたものであって、またその方に依存しているものである。クリスチャンの命は何か?それは助けられた命であり、罪の世から取り出された命であり、キリストの命に結びつけられた命である。それはキリストの義が着せられた命である。」(YI1896.6.21)。「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ29:11)。「それは叫びと罪のない命であり、悲しみのない命、また弱さや悩みのない、また恐れや死のない命である。その命には、どんなに価値があることだろう!しかし、ここにあなたがその命を持つことができるか、あるいは持つことができないかを決める条件がある。永遠の命とは唯一の神、まことの神でいますあなたと、またあながたつかわされたイエス・キリストを知ることであります。」(1SAT239)。私たちの救い主イエス・キリストがこの地上においでになった目的は、「罪に終わりを告げ」(ダニエル9:24)ることであった。罪は恐ろしいものであり、また憎むべきものです。それは、すでに私たちの尊い救い主の命を奪いました。またこれは私の命をも奪い取るものです。私たちの救い主イエス・キリストの使命は、私たちの「罪を取り除くため」(第一ヨハネ3:5)、また「悪魔のわざを滅ぼす」(第一ヨハネ3:8)ことでした。彼がこの働きを私たちのために、また私たちのうちに終えられる時、再びこの地上においでになります。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。…あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1-3)。まことにその方は再臨なさると約束されました。