人類に対する神様の贖いの計画は、聖所を通して人間が直接目で見て、理解することができるようにあらわされました。イエス・キリストが、贖いの計画において中心であられるように、聖所においても同様であります。私たちは聖書の中から、聖所に関連する多くの教訓を学ぶことができます。それらを要約してみますと、

1. いと高き者のすみかであり、イエス・キリストが私たちのためにとりなしをなさる天の聖所、

2. 神の御霊が支配してくださる人間の体の聖所、

3. 象徴的な奉仕が行なわれた地上の聖所、ということになります。

では、この聖所の制度は、いつ人々に紹介されたのでしょうか。私たちは聖書から、その起源を見いだすことができます。地上の聖所を通して、目に見えるようにあらわされた象徴的な奉仕の歴史は、エデンの園の東の入り口から始められました。そこで初めの人々は彼らの供え物を携えてきて、神様に捧げました。アベルは小羊を連れてくることによって、きたるべきメシヤに対する自分の信仰をあらわしました。彼はその動物が流す血だけではなく、その脂肪まで神様に捧げることによって贖い主に対する信仰と、また自分の罪から離れたいと思うその心をあらわしました。「アベルもまた、その群れのういごと肥えたもの(脂肪)とを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。」(創世記4:4)。「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(へブル11:4)。昔、神様に忠実であった信仰の父祖たちは、神様と近く生活していました。そのため、罪のないお方の死を通してのみ彼らの罪が贖われるという一つの重大な真理を教えるために、今のような多くの形式や儀式を必要とはしませんでした。彼らに必要だったのは、ただ自分たちの信仰を、自分たちの身代わりとして罪を負ってくださる方と結びつける、単純な祭壇と傷のない小羊だけだったのです。

しかし、イスラエルの民は長い間、エジプトで奴隷の生活をしていたために、彼らは神様に対する真の礼拝においてその重要性を忘れてしまいました。彼らは奴隷の生活に慣れることによって、静かに神様と交わり、また御心を学ぶ特権を失ってしまいました。神様はご自分の力強い御手によって、彼らをエジプトから贖い出し、もう一度シナイ山で彼らが忘れていたご自分の律法をお与えになり、それだけではなく、彼らの信仰の父祖たちが遵守していた同じ犠牲制度をお与えになりました。これこそ、彼らに神様の贖いの計画を明らかにする教科書でありました。これは、単に、ある地上の目に見える勢力からの救いではなく、目に見えない罪からの贖いを教えることでありました。無限の愛である神様は、彼らと共に住むことを願っておられました。しかし彼らは、あまりにも長い間神様から遠く離れて生活していたために、神様が、どのようにして自分たちと共に住むことがおできになるのかを理解することも、見ることもできませんでした。それゆえ、神様は「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」(出エジプト25:8)と命じられたのであります。幕屋の上にあった雲の柱と幕屋の中にあらわれた目に見える神様の御臨在のしるしは、イスラエルの民に彼らと共に住みたいと願っておられる神様の実際的な御臨在を理解させるためのものでした。この聖所は天の聖所の影であり、ひな型でした。この聖所でなされる奉仕は、失われた人類の贖いのため、神様の御子がこの地上とまた天で行なわれるその働きの象徴であり、またそれを表現したものです。それは、罪を犯した人間に与えられた教訓の中で最も驚くべき実物教訓でありました。荒野に建てられたその幕屋は、非常に美しい構造物でした。幕屋の周りには亜麻の撚糸のあげばりによって囲まれた庭がありました。そのあげばりは銀で飾られた青銅の柱の銀の鉤にかけられていました。どの方向から見ても、その幕屋は非常に美しいものでした。北側、南側、また西側は内側も外側もすべて金で覆われた10 キュビトの高さの立枠で造られており、その立枠の下には銀の座があり、金で覆われた桁で金の環をさし、その幕屋の周囲を囲んでいました。その前の部分、すなわち東側は「青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で織ったとばり」(出エジプト36:37)になっていました。その垂れ幕は金で覆われた5 本の柱にかけられており、その入り口の美しさをさらに際立たせていました。神様が住むと約束されたその建物の入り口は、巧みなわざをもってケルビムを織り出した幕で造られていましたが、それは天の聖所の入り口の一つの美しい影でありました。ここが、天父が座しておられ、また美しい虹がその周囲を囲んでいるその御座と、(黙示録4:2 - 4,5:11)、千々万々の天使たちが神様の御声に従おうと出入りする場所の象徴でありました。その幕屋の屋根、あるいは天幕のおおいは布と皮でできた4つのとばりでできていました。内部のとばりは幕屋の入り口と同じように青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で造られ、巧みなわざをもって黄金のケルビムの模様が織り出されていました(出エジプト26:1)。このとばりの上にはあかね染めの雄羊の皮のおおいがあり、その上にまたじゅごんの皮のおおいがありました。これらすべてはその当時の気候から聖所を守るためでした(出エジプト26:1-14)。もっと詳しいことはこれからの研究を通して学んでいきます。次に、私たちはこの地上の聖所の原型である天の聖所について考えてみたいと思います。

地上の聖所でのすべての礼拝は、天の聖所に関する真理を教えるためのものでした。地上の幕屋がたてられている間は、天の聖所に行く道がはっきりしませんでした。「犠牲制度のひな型と影は、預言とともに、キリストの啓示によって世にもたらされるべきであった恵みとあわれみの目的について、イスラエルにはっきりしないおぼろげな見解を与えてしまった。」(6BC1096)。しかし、イエス・キリストが天の聖所に入られ、人類のためにご自分の血を捧げられたとき、神様はご自分の預言者たちを通して、天の聖所に関するより多くの光を与えてくださいました。「そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。」(黙示録11: 19)。使徒パウロは、イエス・キリストが私たちのために天の聖所に入られたことを、はっきり私たちに教えています。「キリストは、…上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。」(へブル9:24)。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」(へブル7:25)。天の聖所から神様は私たちに助けをお送りくださいます。「主が聖所から助けをあなたにおくり、シオンからあなたをささえ」られます(詩篇20:2)。天の聖所は神様の偉大な力の宝庫であり、信仰によってその場所とつながりを持っている者は誰でも、サタンのあらゆる誘惑や試練に打ち勝つために必要な力をすべてそこから受けることができます。天の聖所におられる私たちの大祭司イエス・キリストは、地上にいる私たちにご自分の手を差し伸べ、誰でもその方の約束された助けを受けたいと願って信仰の手をのばすとき、その手をつかんでくださいます。信仰の手をもってイエス・キリストの助けをつかむすべての人々は、最も激しい苦境の中を安全に通り過ぎることができ、またそのような人は他の人に光と力を分け与えることができます。天とのつながりを妨げるどんなものをも許さない人々は、いと高き神の地上の聖所となります(イザヤ57:15)。罪から離れ、遠ざかる者は聖霊の住まわれる宮(第一コリント6:19 -20)になります。イエス様は彼らのうちに入られ、共に住むために、個人個人の心の戸をたたきながら(黙示録3:20)、彼らの罪をご自分の義と交換するように嘆願なさいます。罪から解放されるのを熱望する一人の貧しい罪人の例を考えてみましょう。彼は、仲間のうち裕福な者が、罪祭をささげるために自分たちの羊を連れてゆき、また他の人々が山ばとや家ばとを持っていく姿を見ながら、自分には捧げることのできるものが何もないため、絶望感に陥ってしまいます。しかし、「『麦粉一握り』(レビ2:2,6:15)だけでも十分である」という声が彼に聞こえた時、彼の表情には希望の光が輝きます。また、この罪人は、祭司が自分のために裂かれたキリストの聖なる体を象徴する、粉になった小麦を捧げるのを目撃するとき、「あなたの罪が許された」との保証を聞き、ちょうど自分を助ける人が誰もいないと思っていたベテスダの池にいた病人にイエスが「あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われたときと同じように(ヨハネ5: 2 - 9)、今、この罪人の心に喜びが満ち溢れるのです。

キリストと彼の無限の愛についてもっと知りたいと願う者が、その栄光に輝く実体に関連して、地上の聖所の象徴と型とを研究するなら、その人の魂は真理であるキリストの美しさに捕われてしまいます。聖所の真理は、私たちの救い主の品性の美しさ、すなわち他のどんな方法によってもあらわすことができない美しさを私たちに示しています。

闇の中にある光

罪を犯した罪人にとって、すべては暗闇でした。特別に神の御前から追い出されなければならなかった自分たちの状態に気がついたとき、彼らの将来は非常に暗いものでした。サタンは、この暗闇が続くようにと望みました。しかし、神様は、聖所の制度を通して、希望の星であるイエス・キリストをあらわされました。「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。」(第二コリント4: 6)。「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。」(イザヤ60:2)。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ1:5)。「アダムにとって、最初の犠牲をささげることは、非常に心の痛む儀式であった。彼は、神だけが与えることのできる生命を奪うために、手を振り上げなければならなかった。彼が死を見たのはこれが最初であった。もし彼が神に服従していたならば、人間も獣も死ぬことはなかったことを悟った。彼が罪のない犠牲を殺したとき、自分の罪のために、傷のない神の小羊の血を流さなければならないことを考えて、ふるえおののいた。神の愛するみ子の死によらなければ、償うことのできない自分の罪の大きさを、この光景は、さらに深くなまなましく彼に示した。罪を犯した者を救うために、そのような犠牲をお与えになる無限の恵みに彼は驚いた。暗く恐ろしい未来に希望の星が輝いて、それが、全く絶望的になるのを防いだ。」(人類のあけぼの上61)「暗がりと暗闇が死のとばりのようにたちこめていたにもかかわらず…希望の星が暗い将来を照らしていた。」(1BC1084)聖所とは何か聖所は、私たちに神の贖いの計画を詳しく教える偉大な教科書です。聖所は、私たちに多くのことを教えています。「聖所の問題を正しく理解することは、私たちに民として非常に重要である。私たちが、主にその問題に対する光を熱心に求めたとき、光は与えられた。」(UL199)。

 

聖所から私たちは何を見、聞き、理解し、受け、またそこで何を捧げるべきでしょうか?1.「主はその聖なる高き所から見おろし、天から地を見られた。」(詩篇102:19)2.「あなたは彼らを導いて、あなたの嗣業の山に植えられる。主よ、これこそあなたのすまいとして、みずから造られた所、主よ、み手によって建てられた聖所。」(出エジプト15:17)

3.「主が聖所から助けをあなたにおくり、シオンからあなたをささえ、」(詩篇20:2)

4.「そこでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。」(詩篇63:2)

5.「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。」(詩篇73:17)

6.「神よ、あなたの道は聖所にあります。われらの神のように大いなる神はだれか。」(詩篇77:13 英文)

7.「誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。」(詩篇96:6)

8.「主をほめたたえよ。その聖所で神をほめたたえよ。」(詩篇150:1)

地上の聖所

地上の聖所は、人間が考案したものではなく、神のはっきりした指示に従って造られたものであります。「すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。」(出エジプト25: 9)。「[祭司たち]は、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、『山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい』と言われたのである。」(へブル8:5)。私たちは、この聖所の構造と目的、また歴史を理解する必要があります。「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。」

(出エジプト25:8)。「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。 すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。」(へブル9:1- 5)。モーセは、神とともに山にいたときに、「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」と命じられました(出エジプト25:8)。「イスラエル人は荒野の旅をしていたので、幕屋は、移動できるように組み立てられていた。しかしそれにしてもそれは非常に壮麗な建造物であった。」(各時代の大争闘下122)。「地上にあった幕屋、あるいは神の神殿は、天にある原型のひな型であった。」(ST1886.7.29)。「へブル人がカナンに定住してから、幕屋はソロモンの神殿に代わり、規模は大きく、建築も永久的なものとなったけれども、同様の比率で造られ、同じような器具が備えつけられていた。こうして、聖所は、ダニエルの時代に荒廃に帰した時を別として、紀元70 年にエルサレムがローマに滅ぼされるまで存在していた。」(各時代の大争闘下124)。「これが地上に存在した唯一の聖所で、聖書が記録しているものである。パウロはこれを、初めの契約の聖所と言った。しかし、新しい契約に、聖所はないのであろうか。」(各時代の大争闘下124)。

天の聖所

天の聖所は新しい契約の聖所とも呼ばれています。特別にここは、私たちの贖い主であるイエス・キリストの働かれる場所であります。私たちにとって今必要なのは、信仰によってここに入る体験です。これは霊的に、嵐や激しい波に悩まされているクリスチャンの生涯を続けている人々にとって、魂の錨です。「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ『幕の内』にはいり行かせるものである。その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。」(へブル6:19,20)。「ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。」(へブル9:24)。「イエスがわれわれのために仕えておられる天の聖所は、大いなる原型であって、モーセが建てた聖所は、その写しであった。」(各時代の大争闘下126)。「キリストが弟子たちを離れて昇天されたとき、弟子たちは、信仰によってここまで彼についていった。ここに彼らの希望は集中した。パウロは次のように言った。『この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。その幕の内に、イエスは、永遠に……大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。』『かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである』(へブル6:19、20、9:12)。」(各時代の大争闘下135,136)。

聖所の歴史

聖所の歴史は、罪を犯した人々との歴史と、その初めと終わりを共にしています。それは、聖書全体を貫く一筋の矢として、旧約と新約聖書を、すなわち創世記から黙示録まで貫通しています。「主なる神は人とその妻のために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)。この時点で私たちは人間の贖いのための聖所、また犠牲制度が始められていることがわかります。また、「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」(創世記3:24)という記録から、聖所の東の入り口を見いだすことができます。それだけではなく、ケルビムの間におられた神様の御臨在を目撃することができます(出エジプト25:19 -22)。カインとアベルの犠牲の是非の中で、アベルは「その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた」(創世記4:4)という記録から、私たちは、犠牲制度の中心となるべき真理を理解することができます。また、この教訓は、その制度がすでにその当時設立されており、自分たちの救いのために真の従順がどれほど大切なものであるかを私たちに教えています。私たちがこのことを考える時、聖書の歴史は、聖所の歴史であるといっても過言ではありません。なぜ、この聖所の制度がそれほど大切だったのでしょうか?聖所は命の源である神様から人が離れて以来、神様ともう一度和解させるために設立されました。また、神様が人々のうちに「住むため」(出エジプト25:8)に建てられたのでした。。その他、この制度は祭司の奉仕と犠牲制度をはっきり説明しています。私たちは、聖所の器具や構造を通して、贖いの過程と内容を見ることができます。これらすべては、神ご自身によって設立されたものです。それは、贖罪の各過程を説明する青写真であり、また十字架によって最も明らかにあらわされた神様の正義とあわれみをあらわす偉大な教科書なのです。「天の聖所は、人類のためのキリストのお働きの中心そのものである。それは、地上に生存するすべての者に関係している。それは、贖罪の計画を明らかにし、われわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる。すべての者が、これらの問題を徹底的に研究し、彼らのうちにある望みについて説明を求める人に答えることができるようにすることは、何よりも重要なことである。天の聖所における、人類のためのキリストのとりなしは、キリストの十字架上の死と同様に、救いの計画にとって欠くことのできないものである。キリストは、ご自分の死によって開始された働きを、復活後、天において完成するために昇天されたのである。われわれは、信仰によって、『わたしたちのためにさきがけとなって、はいられた』幕の内に入らなければならない(へブル6:20)。そこには、カルバリーの十字架からの光が反映している。そこにおいて、われわれは、贖いの奥義について、もっとはっきりした理解を持つことができる。」(各時代の大争闘222)

聖所のうちにあらわされた神の御目的

ここで私たちは聖所にあらわされた神様のご目的を理解する必要があります。また、神様が各個人に対してどのような目的を持っておられ、またどのようにして私たちがそれに応えることができるかを知る必要があります。

私たちのうちに住むため

「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。」(出エジプト25:8)。神様は、イスラエル人について、「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」とモーセに命じられました(出エジプト25:8)。「そして神は聖所の中に、すなわちご自分の民のまん中にお住みになった。…そのように、キリストはわれわれ人間の陣営のまん中にご自分の幕屋をお建てになった。キリストはわれわれのうちに住み、ご自分のきよい品性と生活とをわれわれにあらわすために、人間の天幕のそばにご自分の天幕を張られた。」(各時代の希望上7)。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1:14)。ご自分の民に会うため「その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。」(出エジプト25:22)。「…わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。」(出エジプト29: 42, 43)。「昔の聖所と同じように、神とご自分の民が会う聖なる場所が必要である。」(CG542)。

ご自分の民を導くため

「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』。」(ヨハネ14: 6)。「すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。」(出エジプト40: 38)。「キリストご自身によって犠牲制度や礼典律が与えられた。彼は、昼は雲の柱のうちに、夜は火の柱のうちにおられ、イスラエルの大群を導かれた方である。」(ST1886. 7. 29)。ご自分の民と交わるため「わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。わたしは彼らの神、主である。」(出エジプト29:46)。「贖罪所の上方には、神の臨在のあらわれであるシェキーナーがあった。神は、ケルビムの間からみこころをお知らせになった。神のお告げは時として、雲からの声によって大祭司に伝えられた。また、時として、承認もしくは受容をあらわすために光が右側の天使を照らし、不賛成もしくは拒否をあらわすために、影もしくは雲が左側の天使をおおうこともあった。」(人類のあけぼの上410)。

ご自分の計画を造られたものによってあらわすため「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」(ローマ1:20)。「シナイ山においての啓示は、彼らの心に、自分自身の足りなさと無力とを深く思わせただけであった。幕屋で行なう犠牲の奉仕を通して、もう一つの教訓、すなわち罪の赦しと、救い主に従うことによって生命にいたる能力とについての教訓が、彼らに教えられなければならなかった。」(教育29)。

ご自分の民に悟りを与えるため

「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。」(詩篇73:17)。「それは、贖罪の計画を明らかにし、われわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる。」(各時代の大争闘下222)。聖霊による型/キリスト、真の型「霊によって与えられたそのすべてのもの(PATTERN)、すなわち主の宮の庭、周囲のす

べての室、神の家の倉、ささげ物の倉などの計画を授け、」(歴代志上28:12 英訳)。「キリストは真の型であり、彼の自己犠牲の生涯は私たちの模範である。」(1T155)。「ユダヤ制度の意義は、まだ一般に十分に理解されていない。その儀式や象徴の中に意味深い真理が予表されていた。その神秘を開くかぎが、福音である。贖罪の計画を知ることによって、その真理を理解することができる。このような驚くべき主題を理解することは、わたしたちが考えているよりは、はるかに大きな特権である。わたしたちは、神の深遠さを理解しなければならない。」(キリストの実物教訓111)

イエス・キリストがおられる場所

イエス・キリストの働きは、どんなものでしょうか?それは悔い改める罪人たちの祈りに、ご自分の義を加え、御父に捧げられることです。「また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は、御使の手から聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。」(黙示録8:3,4)「ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。」(へブル9: 24)。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」(へブル7:25)。「イエスがわれわれのために仕えておられる天の聖所は、大いなる原型であって、モーセが建てた聖所は、その写しであった。」(各時代の大争闘下126)。__