私たちは昔の遺跡や建造物を見る時、当時の建築技術やそれに使われた材料、また当時の経済状態など、色々なことを知ることができます。これと同じように、私たちは聖書を通
して、宇宙の王であり、創造主である神の住まわれる聖所(出エジプト25:8)が、どのような材料や建築技術、またどれほどの費用を用いて建てられたかということを知ることができ
ます。まず、

1.すべての費用は自発的な心から捧げられたものでまかなわれ、

2.建築技術は神の聖霊の技術であり、

3.材料は尊く、また高価なものであったことを知ることができます。まことに宇宙の王である神の聖所らしい建物でありました。しかしそれでも、有限な人間の知力で理解することができるこの建物は、天にあるオリジナルの聖所とは比較にならないことを理解する必要があります。あらゆる材料が聖所の建設のために使われましたが、その中でいくつかの重要なものについて考えてみます。価値の順からみますと、まず第一は純金です。次が銀であり、その後に宝石が続きます。この研究をしながら、基本的に私たちが理解するべきことは、金は信仰
を象徴するものであり、銀は従順、また宝石は善行をあらわしているということです。「金、銀、宝石―信仰と従順と善行」(国と指導者 下31)。あなたはどう思いますか?神様が、なぜ
これらの材料を使用するように命じられたのかお分りになると思います。その他の材料については、本課でもっと詳しく研究しますが、特別にこの三種類の材料を中心に考えてみたい
と思います。神ご自身が臨在なさる聖所は一つの象徴でありました。言いかえれば、神の住まわれる場所を指していることです。パウロは次のように語っています、「あなたがたは知らな
いのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられた
のだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(第一コリント6:19-20)。聖書は、私たちの体が神の宮になるべきことを教えています。「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて
建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ため
すであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のよう
にではあるが、救われるであろう。あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」(第一コリント3:11-17)。パウロは宮の基礎と、また必要とされる材料、またこの宮の目的をはっきり説明しています。それにつけ加えて彼は、この建物はテストされる時がくることを話しています。ここでパウロはまず、基礎はイエス・キリストであるという事実を言明し、その
後それにつけ加えられるべき材料について言及しています。火で精錬される時に残る材料と残らない材料、すなわち金、銀、宝石とあるいは石、木や灰について話しています。これらは、
私たちに非常に大切な教訓を教えています。言いかえれば、火の試練の時にも残る建物になるためには、私たちは金である信仰と、銀である従順と、宝石である善行によってこの宮を
建てなければならないということです。
この材料についてもう少し考えてみます。これらの材料はどこから持ってきたものでしょう。「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、
あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」(イザヤ51:1)。鉱山から持ってこられたこれらの材料を、そのまま使うことはできません。これらの物は「宮の建物のために刻まれ」(詩篇
144:12)る必要があります。しかし、特別に地上で神殿が建てられたときの記録を見てみますと、次のような意味深い記録があります。「宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもっ
て造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。」(列王紀上6:7)。この聖句の中に、私たちは「整えた石」という表現が使わ
れているのをみることができます。ここから、私たちは今回の研究を通して、自分たちがどのような状態で神に栄光を帰し、また他の人々に光を放つクリスチャンになることができるかを
理解することができると思います。「ソロモンと彼の協力者たちが神と神の礼拝のために建てた広大な建物は、実に、美を極め、その華麗さは、ほかに比べるものがなかった。壮麗な入口と広い庭に囲まれて、宝石に飾られ、彫刻をほどこした香柏、みがき上げた金をはりつめた神殿は、各時代を通じて神の型に従って、「金、銀、宝石」にたとえられた材料によって、『宮の建物のために刻まれる』地上の神の生ける教会を代表するのに、まことにふさわしいものであった(第一コリント3:12、詩篇144:12)。キリストは、この霊的神殿の『隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長』するのである(エペソ2:20,21)。」(国と指導者上13)。まことに今の時代は、純金として象徴された純潔で熱烈な信仰と、銀で象徴された従順、すなわち死に至るまで従順であったイエス・キリストの従順(へブル5:8,9)、そして宝石に象徴された善行、すなわち「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)と言われた通りの神様に栄光を帰す善行を行なうことが、緊急に要求されている時代であります。

建設のための準備

「主はモーセに言われた、イスラエルの人々に告げて、わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。あ
なたがたが彼らから受け取るべきささげ物はこれである。すなわち金、銀、青銅、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸、やぎの毛糸、あかね染の雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香のための香料、縞めのう、エポデと胸当にはめる宝石。」(出エジプト25:1-7)。「また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、垂幕を作り、巧みなわ
ざをもって、それにケルビムを織り出した。また幕屋の入口のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織ったとばりを作った。」(出エジプト36:35,37)。聖所の建築
には、多額の費用を要する準備が必要でした。貴重で高価な材料が大量になければなりませんでした。しかし、主は、心からのささげ物だけをお受けになったのです。モーセは「す
べて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい」という神の命令を民に伝えました(出エジプト25:2)。「まず初めに神への献身と犠牲の精神が、いと高き者の
すみかを造るために要求された。」(人類のあけぼの上406)。「その幕屋のために使われた費用は100 万ドル以上であった。」(ST1875. 8. 5)。「建物とその造作に用いられた木材は、シナイで手に入れられるどんな木材よりも腐朽しにくいアカシヤ材であった。壁は銀の台にすえられ、柱と横木で結び合わされた立て板であるが、金でおおわれているために、見たところ
全体が金のようであった。屋根は四組の幕から成り、最も内側のものが「亜麻の撚糸、青糸、紫糸、緋糸で造り、巧みなわざをもって、……ケルビムを織り出」したものであった(出エジプト36:8)。他の三組はそれぞれ、やぎの毛糸、あかね染めの雄羊の皮、じゅごんの皮でできていて、完全な防護となるように配列されていた。」(人類のあけぼの上407)。「今彼らは、
背信と不信というごみを捨て去り、金、銀、宝石すなわち、信仰と服従と善行を基礎材料に用いて、賢明に永遠のために建てるように勧告を受けたのである。ただ、これだけが、聖なる神のみ前に受け入れられるのである。」(国と指導者下31)。

「たとい彼らは羊のおりの中にとどまるとも。はとの翼は、しろがねをもっておおわれ、その羽はきらめくこがねをもっておおわれる。」(詩篇68:13)。黄いろい色を放つ黄金は、聖
所において多く使われました。金は各時代にわたって富をはかる基準として用いられました。この世の習慣と対比して、パウロは、神の国では金ではなく、信仰にもっと価値があること
を強調しています。「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。」(へブル11:6)。また、ヤコブは「神はこの世の貧しい人たちを選んで、信仰に富ませ」(ヤコブ2:5)と述べています。そしてこの信仰は精錬されなければなりません。この金は、ラオデキヤの人々にとって最も必要とされているものであり、また、この金、すなわち信仰は、愛によって働き魂を清める
ものです。天の商人は、この品物を価なく金を支払うことなしに買うようにと嘆願しておられます。「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い」
(黙示録3:18)なさい。

たとえわずかであっても、銀は光に照らされる時、きらめきます。これは、従順の象徴として表されています。主はイスラエルのうち、はじめて生まれたすべてのもののために、半シ
ケルを捧げるように要求なさいました。「主はモーセに言われた、『あなたがイスラエルの人々の数の総計をとるに当り、おのおのその数えられる時、その命のあがないを主にささげなけ
ればならない。これは数えられる時、彼らのうちに災の起らないためである。すべて数に入る者は聖所のシケルで、半シケルを払わなければならない。一シケルは二十ゲラであって、おのおの半シケルを主にささげ物としなければならない。すべて数に入る二十歳以上の者は、主にささげ物をしなければならない。あなたがたの命をあがなうために、主にささげ物をする時、富める者も半シケルより多く出してはならず、貧しい者もそれより少なく出してはならない。あなたはイスラエルの人々から、あがないの銀を取って、これを会見の幕屋の用に当てなければならない。これは主の前にイスラエルの人々のため記念となって、あなたがたの命をあがなうであろう』。」(出エジプト30:11-16)。神はこのことについて、これは「あなたがたの命をあがなうであろう」と言われました。貧しい者も、また豊かな者も、きまった価より少なくもまた多くも捧げませんでした。贖いにおいては、富は何の効力もありません。神の御前にはすべての人はみな同じ罪人です。しかし、今日私たちが贖われたのは、「銀…によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。」(第一ペテロ1:18,19)。銀は、失われた者のためにご自分の命を身代金として捧げられた救い主の完全な従順に、人間の贖いが基づいていることを示しています。

宝石

「周囲は神の都の12 の土台を形成するのと同じ、さまざまな宝石で縁取られていた。」(人類のあけぼの上413)。「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるの
だ。」(マタイ3:9)。「大祭司の胸当てには多くの宝石があった。しかし、各宝石はそれに特別な光があって、全体の美しさを増し加えた。各宝石は一つ一つに特別な意味があり、神
様からの重要なメッセージを伝えていた。多くの宝石があったが、胸当ては一つであった。それと同じように多くの思いがあるが、神の思いは一つである。教会の中には多くのメンバー
がいるが、各自は特別な特徴を持っており、皆一つの家族を構成する。」(Ev379, 380)。「私たちは生きた宝石として成長し、また各宝石はそれにふさわしい光を照らすべきである。
すべてのクリスチャンは神の栄光の光を受け、またそれを反映する宝石に比べられている。」(6T435)。「信者たちの群れは、その数が少ないかもしれないが、神の御前に彼らは非常に
尊いものである。真理の剣によって彼らは世の採石場から切り出され、粗い石として神の働き場に運ばれ、切られ、また形づくられる。しかしその石が粗い石であっても、神の御前に
は尊い存在である。…宝石として宮のかたちに型どって整えられるとき、天の宮に私たちがいる場所を神様は持っておられる。」(6T363)。

亜麻布

幕屋で使われたすべての材料をおおうものは、「光り輝く汚れのない麻布」(黙示録19:8)でした。このおおいは、天の純潔さを指し示しています。それは巧みなわざをもって織り込
まれたものであって、植物からの綿と動物からのウールと地のちりの中からの金と銀が入れ混ぜられて作られ、聖所の幕とまた天井として使われました。そして、そのとばり(veils)は
救い主の奉仕の三段階を示しており、また祭司たちの服もこの麻布によってつくられました。これらの材料が集められ、用意されたとき、イスラエルの「すべて心に知恵ある女たちは、その手をもって紡ぎ」(出エジプト35:25)続けて、それを織りました。ご自分の体の幕(へブル10:20)のように、このとばりも女たちの捧げものでした。三色が入れ混ざったこのとば
りは、やはり高価な材料で美しく作られました。このつづれ織りは「そのすそに金と銀の重いおもりによって吊り下げられており、非常に美しいものであった」(WLF16)。「この麻布の衣は『聖徒たちの正しい行いである』と聖書にしるされている(黙示録19:8)。主を自分の救い主として受け入れるすべての者に信仰を通して与えられるのは、キリストの義であり、キリストご自身の汚れのないご品性である。」(キリストの実物教訓290)

じゅごんの皮

黒は白の反対色であり、それは光と色が存在しないことを表す。預言者は、イスラエルについて次のように語っています。「わが民の君たちは雪よりも清らかに、乳よりも白く、そのか
らだは、さんごよりも赤く、その姿の美しさはサファイヤのようであった」、しかしこの美しさはまったく変わり、「今はその顔はすすよりも黒く、町の中にいても人に知られず、その皮膚は縮んで骨につき、かわいて枯れ木のようになった。」(哀歌4:7,8)。黒服はたびたび死と悲しみをあらわすものでした。幕屋において唯一みられる黒色はじゅごんの皮で、それは幕屋の
一番上のとばりでした(人類のあけぼの上407)。黒は光の不在を意味し、永遠の栄光からの分離をあらわし、罪のための苦い叫びを含んでいます。イエス・キリストの外見は何の美し
さもなく、見るべき姿もありませんでした。その方の人性は「罪の肉の様」(ローマ8:3)で、人としての生涯を送られましたが、罪は犯されませんでした。

幕屋の色:青色、紫色、緋色、白色

青色

「イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒
めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行
い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。」(民数記15:38 - 40)。「私は民数記15:38 - 41 に注意を払うように命じられた。…ここで神ははっきりご自分の民をそ
の周りの偶像礼拝の民族から区別させる目的のため、イスラエルの子らは非常に単純な衣服を着るように命じられた。彼らが自分たちの服の特徴を見るとき、自分たちが神の戒めを守る民であることを覚えるのであった。…神が、ご自分の民を区別なさるこれらの単純な方法を用いられたので、すぐイスラエルの民を区別することができた。」(1T524)。「まことに神は
イスラエルの子らに彼らの衣服のすそに青いリボンをつけるように命じられた。その上には十誡の要点が織り込こまれていた。これは、神に対する最高の愛と隣り人を自分のように愛す
べき彼らの義務を常に思い起こさせるものであった。」(2SP74)。

紫色

紫色は王の権威をあらわしています。「こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣
およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。」(士師8:26)。「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。」(ルカ16:19)。「兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、それから、その前に進み出て、『ユダヤ人の王、ばんざい』と言った。」(ヨハネ19:2,3)。

緋色

赤、あるいは緋色は幕屋で最も著しく際立っていました。「若い子牛は赤色であったが、それは血の象徴であった。」(4T120)。血は、自分の罪のために罪祭として罪人が捧げる犠
牲物の命をあらわしました。主は、彼らの運命を決定してしまっていた人々に「あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ」よ、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ1:16,18)と言われました。主は緋色、あるいは血の色である赤を用いて死をもたらす罪に対してイスラエルが油断することのないように意図なさいました。血は、犠牲によって説明されたきよめと許しの過程の拠り所でした。この色
は、神の小羊の死によってのみ、許しを受け、神に受け入れられることを教えています。罪は、犠牲の血によってそれを洗う必要があったように、赤として分類された。赤は、私たちに亡く
なられた世の光の血を思い起こさせ、二番目のアダムのあわれみと犠牲を思い出させる。キリストの釘づけられた体と刺しとおされた心臓から命を与える血は流れ出て、その方が亡く
なることによって汚れた世を洗うことが可能になりました(各時代の大争闘下462)。赤、あるいは緋色は、人類のために注がれたイエス・キリストの犠牲と贖いの奉仕を象徴しています。
次の興味深い光景を考えてみましょう。「われわれは進んで行く途中で、辺りの栄光をながめている一団の人々に出会った。わたしは、彼らの着物の縁が赤いのに気づいた。彼らの冠は輝かしく、彼らの衣は純白であった。われわれが彼らにあいさつをしたときに、わたしは、彼らがだれなのかをイエスに尋ねた。彼らはイエスのために殺された殉教者たちであると、イエスは言われた。彼らと一緒に数えきれないほどの子供たちがいた。彼らの着物の縁も赤かった。」(EW69)。

白色

聖書は、白色を義と徳と純粋、また祭司のきよさをあらわすために用いています。白は、イエス・キリストの完全な品性をあらわしており、それは人間の努力によって達成する以上の
純潔の質を指し示しています。キリストはご自分の三人の弟子たちに、ご自分の栄光の王国の輝きをお見せになりました。「彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、
その衣は光のように白くなった。」(マタイ17:2)。この白い衣は、キリストのしみのない義の象徴です。「光り輝く、汚れのない麻布の衣」(黙示録19:8)は、まず花婿である救い主の
義をあらわし、次に、父がご自分の教会、すなわちキリストの花嫁に、自分の花婿をながめることによって与えてくださる義をあらわしています(第二コリント3:18)。主は、イスラエル
の緋のような罪でも、羊の毛のように白くしてくださると約束されました(イザヤ1:18)。また終わりの時代、神様の民は、自分たちを「白くする」(ダニエル12:10)と書いてあります。
キリストの働き、すなわち「布さらしの灰汁」(マラキ3:2)をもつ方としての働きも白くすることであります。また、聖徒たちは、小羊の血によって自分を白くした、と使徒ヨハネは言っています(黙示録7:14)。
聖所の様々な色は、イエス・キリストの福音の特徴をうたっています。純潔と、またイエス・キリストが与えてくださる従順をあらわす白金の白、そして天の律法の中にあらわれた天の義
をあらわす青、カルバリーの贖いの血をあらわす赤、インマヌエルであるお方の権威をあらわす紫、これらのすべての色はイエス・キリストの性質をあらわしているのです。青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸の材料でできた聖所、また羊によって用意されたウール、これらすべてのものは私たちの裸をおおうために、神の小羊がご自分の衣を与えてくださったことをつげており、ま
たそれは人間の考案したものでもなく、また人間の知恵による糸ではなく、天の糸で織り込まれたキリストの神秘的な神性と人性の衣を私たちに教えています。