今課では、「神によって備えられた小羊」と「人によって殺された小羊」について研究します。つまり、「聖なる神」――「小羊」――「罪深い人間」の関係について、より深く研究していきます。なぜなら、聖なる神と罪深い人間を中心に立って結ぶこの「小羊」を通してのみ、「和解」(コリント第二5:19)が、可能となるからです。この真理は、全宇宙にとって未知のものでした。人間の堕落以来、地上にいる一人ひとりに、また他世界の住民にまで、この原則の重要性を明らかにすることが、神のご目的でありご計画でした。聖書は、イエス・キリストが小羊であると教えています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。そしてイエスご自身が、ご自分は「道であり、…だれでもわたしによらないでは父のみもとへ行くことはできない」(ヨハネ14:6)とはっきり仰せになり、さらに「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」(ヨハネ15:5)とつけ加えられました。このことを通して、私たちは、罪深い人間が神ともう一度和解したいと望むなら、それは全くキリストである「小羊」にかかっているということを理解するのです。

ここに、神がこの重要な真理を明らかになさった一つの例があります。彼は尋常ではない方法を通して救いの計画をお教えになりました。創世記の22章には、アブラハムに対する神のみ言葉が記録されています。そこには、父親の心を苦痛でしめつけるような言葉で、命令が表現されています。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて、…彼を燔祭としてささげなさい」。イサクが、唯一の子であり、また彼の老年の慰めであったことを考えてみてください。しかし、いま彼は、自分自身の手でその息子の血を流すようにと命じられたのです。それは、彼にとって、恐ろしい不可能なことのように思われました。神の律法は、「あなたは殺してはならない」と命じており、また神は、一度ご自分が禁じられたことを要求なさるはずはないから、アブラハムは欺かれているのだと、サタンがそばで言いました。アブラここに、神がこの重要な真理を明らかになさった一つの例があります。彼は尋常ではない方法を通して救いの計画をお教えになりました。創世記の22章には、アブラハムに対する神のみ言葉が記録されています。そこには、父親の心を苦痛でしめつけるような言葉で、命令が表現されています。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて、…彼を燔祭としてささげなさい」。イサクが、唯一の子であり、また彼の老年の慰めであったことを考えてみてください。しかし、いま彼は、自分自身の手でその息子の血を流すようにと命じられたのです。それは、彼にとって、恐ろしい不可能なことのように思われました。神の律法は、「あなたは殺してはならない」と命じており、また神は、一度ご自分が禁じられたことを要求なさるはずはないから、アブラハムは欺かれているのだと、サタンがそばで言いました。アブラハムは、妄想にとらわれているのだと信じたい誘惑にかられました。彼は、疑惑と苦悩のうちに、地にひれ伏し、そして祈りました。この恐ろしい義務を果たさなければならないのかどうか命令の確証を得るために、かつてないほど祈りました。彼は暗闇に閉ざされたように思われました。しかし、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れ」なさいという神の命令が、彼の耳に響いていました。本当に何という衝撃的な命令だったことでしょう!

ただ神だけが、この父親の自分の息子を死に渡すという犠牲の大きさを理解することがおできになりました。アブラハムは、神以外のだれにも、この光景に見られたくありませんでした。たきぎは犠牲となる彼のひとり子イサクが運び、父アブラハムが刃物と火を取って、一緒に山頂さして上っていきました。息子は、心の中でささげるべき子羊はどこにいるのだろうかと不思議に思っていました。彼はついに、「父よ」、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」と訊ねました。ああ、これは何という試みだったことでしょう!「父よ」という愛のこもった言葉が、どれほどアブラハムの心を刺したことでしょうか。しかし、まだです—彼は、まだ息子に言うわけにはいきませんでした。「子よ」、彼は、答えて言いました、「神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。神がお命じになった場所に着くと、彼らは祭壇を築き、たきぎをその上に並べました。それから、ふるえる声で、アブラハムは、神の言葉を自分の息子に伝えました。イサクは、自分の運命を知って恐れ驚きましたが、さからいませんでした。彼は、逃げようと思えば、自分の宿命から逃れることもできました。…いよいよ最後の愛の言葉が交され、最後の涙が流され、そして最後の抱擁が終わりました…。父は、自分の息子を殺そうと、刃物を振り上げました。するとその時、突然、彼の手がとどめられました。神の御使いが「アブラハムよ、アブラハムよ」と呼びました。彼は、「はい、ここにおります」とただちに答えました。すると再び、その声が聞こえました、「わらべを手にかけてはならない」。「そこでアブラハムが目を上げてみると、うしろに、角をやぶにかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた」。イサクのかわりにささげられた雄羊は、私たちのかわりに犠牲となられる神のみ子を象徴していました。人間が、神の律法を犯して死に陥ったとき、御父は、ご自分のひとり子をご覧になって、罪人に「生きよ、わたしはすでにあがないしろを得た」と仰せになったのです。

そうです!神によって備えられた神の小羊が、罪深い人間のかわりに殺され、血を流しました。それでは、私たち罪深い人間は、どのようにしてその恩恵にあずかることができるでしょうか?それは、この犠牲を自分自身に個人的に当てはめることによります。だれ一人として、だれか他の人のために当てはめてあげることはできません。それは、個々人の選択と服従でなければなりません。出エジプト記12章で、神はもう一度、この血が家と個人にどのように適用されるのかをはっきりお示しになりました。過越の夜体験したヘブル人の家族の話があります。「過越の夜、あるヘブル人の家族には病気の女の子があった。しかし、彼女は、すべての家族のために小羊が選ばれ、その血が入口の二つの柱と、かもいに塗られていなければならないこと、そうすれば小羊が血のしるしを見て、滅ぼす者がその家に入ってういごを撃つという苦しみにあわずにすむという事を知っていた。滅びの御使が行き交う夕刻が近づくのを見て、彼女はどんなに不安をおぼえたことだろう。彼女は、とても落ち着いていられなくなった。そこで自分の父親をかたわらに呼び、訊ねた、『柱に血のしるしをつけましたか?』。父親は答えた、『はい、そのことの関しては指示しておいたから、心配しなくていい。滅びの御使が、ここに入ってくることはないからね』。夜がきても、まだこの子供は、何度も何度も父親に聞きつづけた、『本当に柱に血のしるしがついていますか?』。父親も繰り返し、彼女に恐れる必要はないと保証した。このような重大な結果にかかわる命令を、彼の信頼のおけるしもべたちがなおざりにするはずはない。真夜中が近づいたとき、彼女の嘆願する声が聞かれた。『お父さん、安心できません。どうかわたしをかかえて、しるしを自分の目で確かめさせてください。そうすれば、安心して休めます』。父親は、この子供の願いをしぶしぶ認めて、腕に抱え、玄関のところまでつれて行った。しかし、そこには、かもいと柱に血のしるしがなかった。彼は、自分の家が嘆きの家になったかもしれないことを悟り、恐ろしさにふるえた。彼は、自分自身の手で、ヒソプの束をとって柱に血を塗った。そして彼は、しるしがそこにあることをその病気の子供に見せたのであった」(レビュー・アンド・ヘラルド1895.5.21)。

「犠牲の小羊は、われわれの救いの唯一の希望である『神の小羊』をあらわしている。『わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ』使徒は言った(コリント第一5:7)。過越の小羊はほふられるだけでは十分ではなく、その血を柱に注がなければならなかった。そのように、キリスト血といさおしは魂にも適用されなければならない。われわれは、キリストが死なれたのは世のためばかりでなく、われわれ一人びとりのためであることを信じなければならない。われわれは、贖いの犠牲の功績を自分のものとしなければならない」(人類のあけぼの 上巻p318)

ほふられた最初の小羊

「世の初めからほふられた小羊」(黙示録13:8英文訳)。「キリスト、すなわち世の初めからほふられた小羊は、犠牲として、また堕落したアダムの子孫のための身代わりとしてご自分を差し出された」(彼を知るために1月12日)。「キリストは世の初めからほふられた小羊であった。多くの者にとって、旧約の時代になぜあれほど多くの犠牲が要求されたのか、なぜあれほど多くの血を流した犠牲が祭壇へ運ばれたのかということが謎であった。しかし、人の前にいつも示されているべき、また思いと心に印象づけられるべき偉大な真理はこれである、「血を流すことなしには、罪の許しはあり得ない」(へブル9:22)。すべての血を流す犠牲に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)が予表されていた」(私たちの高い召し2月10日)。「堕落した人類は、世の初めからほふられた小羊なしに、神のパラダイスに住まいを持つことはできない。そうであれば、キリストの十字架を高く掲げようではないか。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1889.12.30)。

主は備えられる

「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」(創世記22:8)。
「そうして、イサクの代りに天から備えられた牡羊に、アブラハムは人類の罪のために死なれるおかたの象徴を見た。聖霊はイザヤを通し、例を用いて、救い主のことを、『ほふり場にひかれていく小羊のように』『主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた』と預言した(イザヤ53:7,6)」(各時代の希望 上巻p118)。

だれが犠牲を殺したのか

「その罪祭の頭に手を置き、燔祭をほふる場所で、これをほふり、罪祭としなければならない」(レビ記4:33)。だれが罪を犯したかにかかわらず、それが祭司であっても、全会衆であっても、つかさたる者であっても、あるいはその他どんな人であっても、罪を犯した者は、自分の手を動物の上に置き、だれか他の者ではなく、その罪人本人が自分自身の手でそれを殺すのであった。(祭司:レビ記4:3,4、全会衆:レビ記4:13-15、つかさ:レビ記4:22-24、一般の人:レビ記4:27-29)。「悔い改めた罪人は供え物を幕屋の戸口にたずさえ、このいけにえに手をおいて罪を告白し、こうして象徴的にその罪を彼自身から無垢の犠牲の上に移し変えた。それから動物は、彼の手で殺された。祭司は、血を聖所に運んで、この罪人の犯した律法を入れた箱の前方にたれているとばりの前に注いだ。「祭司[でさえ]、自分自身が罪のための供え物となることはできなかった。また自分の命のために罪を贖うことはできなかった。なぜなら、彼も罪人であったからである。それゆえ、彼自身が死を

こうむる代りに、彼は全き小羊を殺した。罪の報酬は罪のない獣に移された。こうしてこの獣は、まさに自分の身代わりとなり、イエス・キリストの完全な供え物を象徴した。この犠牲の血を通して、人は信仰によって世の罪を贖うキリストの血を望みみるのであった。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1878.3.14)

殺すことの恐ろしさ/苦闘のとき

「アダムにとって、最初の犠牲をささげることは、非常に心の痛む儀式であった。彼は、神だけが与えることのできる生命を奪うために、手を振り上げなければならなかった。彼が死を見たのはこれが最初であった。もし彼が神に服従していたならば、人間も獣も死ぬことはなかったことを悟った。彼が罪のない犠牲を殺したとき、自分の罪のために、傷のない神の小羊の血を流さなければならないことを考えて、ふるえおののいた。」(人類のあけぼの 上巻p61)

なぜ、犠牲がほふられなければならなかったのか?

「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」(ヨハネ第一3:4)。そして罪の結果は、「死」(ローマ6:23)です。なぜなら、「破られた神の律法は、罪人の生命を要求した」からでです(人類のあけぼの 上巻p53)。しかし、人には一つしか命がないため、それを与えることはできません。このあわれむべき罪人のために、神様は救う方法を備えてくださいました。「犠牲の供え物は、神が人間のためにお定めになったもので、罪の悔い改めと約束の贖い主への信仰の告白をいつまでも思い起こさせるものであった。それは、死をもたらすものは罪であるという厳粛な事実を、堕落した人類に印象づけるためであった。…神の愛するみ子の死によらなければ、償うことのできない自分の罪の大きさを、この光景は、さらに深くなまなましく彼(罪人)に示した。罪を犯した者を救うために、そのような犠牲をお与えになる無限の恵みに彼は驚いた」(人類のあけぼの 上巻p61)。そして、罪人を罪の刑罰から解放する原則は、たった一つしかありません。それは、「血を流すことなしには、罪の許しはあり得ない」(へブル9:22)。「アベルは、贖罪の大原則を理解した。彼は自分が罪人で、彼の魂と神との間の交わりを、罪とその刑罰である死とが妨げているのを知った。彼は、ほふられた犠牲、すなわち、犠牲にされた生命をたずさえてきて、彼が犯した律法の要求を認めた。彼は、流された血によって、来るべき犠牲、カルバリーの十字架上のキリストの死を見た。そして、彼は、そこでなされる贖罪を信じて、自分が義とされ、供え物が受け入れられた証拠が与えられた」(人類のあけぼの 上巻p68)。

イエスは「一度だけすべての者のために」死なれた

「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた」(へブル9:28)。「キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだ」(ローマ6:10)。「神の命令によって打たれ、生ける水を湧き出させた岩は、キリストの象徴であった。岩が一度打たれたように、キリストもまた『多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられ』るのであった。しかし、モーセがカデシで軽率に岩を打ったとき、キリストの美しい象徴が傷つけられた。私たちの救い主は、二度目に犠牲を払われることはない。大いなる供え物はただ一度だけであり、それは、悔い改めの祈りのうちの心の願いを注ぎ出して、イエスのみ名によってその恵みの祝福を求める者にだけ必要なのである。そのような祈りは、万軍の主の前にイエスの傷を差し示し、そしてその時、渇いたイスラエルのために流れ出る生ける水の流れによって象徴されている命を与える血が新たに流されるのであった。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1880.10.7)。

イエスは悔い改めた罪人を「第二の死」から救われる

「この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、…この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない」(黙示録20:6)。「『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である』(ローマ6:23)。義人の嗣業は生命であるが、悪人が受けるものは死である。モーセはイスラエルに次のように宣言した。『見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前においた』(申命記30:15)。この聖句の中で言われている死は、アダムに宣告された死ではない。なぜなら、全人類が彼の罪の報いを受けているからである。永遠の生命と対照されているのは、『第二の死』である」(各時代の大争闘 下巻p294)。「この世の逃れの町をお定めになった情け深い救い主が、ご自身の血を流すことによって、神の律法を犯した者に確実な逃れの道をお備えになっているのであって、彼らはそこに逃げ込んで第二の死から守られることができるのである」(人類のあけぼの 下巻p147)。

見よ、神の小羊!

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。「キリストの死の意味が聖徒たちと御使たちに理解される。堕落した人類は、世の初めからほふられた小羊なしに、神のパラダイスに住まいを持つことはできない。そうであれば、キリストの十字架を高く掲げようではないか。…天使の完全は天において失敗した。人類の完全は祝福の園、エデンにおいて失敗した。地あるいは天において安全を望む者はすべて、神の小羊を見なければならない。…私たちの唯一の望みは、ご自分によって神の許に来る者をすべて、救うことのできるおかたの血に完全に信頼することである。カルバリーの十字架上のキリストの死が、この地上での私たちの唯一の希望であり、またそれは来世における私たちの研究主題となる」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1889.12.30)。「罪人が、贖い主を見上げるとき、彼は希望、保証そして喜びを見出す。信仰は、キリストを愛のうちにつかむ。信仰は、愛によって働き、魂をきよめる」(セレクテッド・メッセージ 1巻p349)。「もし、あなたが自分の罪に気づいたなら、自分のすべての力を、その罪を悲しむことに費やしてはならない。見て生きよ。イエスが私たちの唯一の救い主である。たとえいやされる必要のある何百万という人々が、主の差し出される恵みを拒んだとしても、彼の功績により頼む者は、一人として滅びるままにしておかれることはない。私たちは、キリストがなければ何の望みもない状態であることを悟っても、失望してはならない。私たちは、十字架につけられ、よみがえられた救い主により頼まなければならない。あわれな、罪におかされて失望している魂よ、見て生きよ」(セレクテッド・メッセージ 1巻p352)。

眺めることに希望がある!

「そこで主はモーセに言われた、『火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう』。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた」(民数記21:8,9)。「青銅のへびを掲げたことは、イスラエルに重大な教訓を教えるためであった。彼らは、その致命傷から自分を救うことができなかった。ただ神だけが彼らをいやすことがおできであった。しかし、彼らには、神がお備えになった方法に、信仰を表明することが要求された。生きるためには、見なければならなかった。…イスラエルの人々は、上げられたへびを見ることによって救われた。こうしてながめたことは、信仰を意味していた。彼らは神の言葉を信じ、神が彼らの回復のためにお備えになった方法に信頼したから、生きたのである。そのように、罪人は、キリストを仰ぎ見て生きることができる。…救いの計画の神秘が、ことごとく明らかにされるのでなければ、キリストを受け入れようとしない者が多い。すでに幾千という多くの人々が、キリストの十字架をながめ、そして、ながめることによって、力を得たことを知っていながらも、彼らは、信仰をもって見ようとしない。多くの者は、哲学の迷路にさまよい、理由や証拠を発見しようとするが見つからない。彼らは、神がお与えになった証拠を拒んでいる。彼らは、義の太陽の輝きの理由が説明されるまではその光の中を歩こうとしない。このようなかたくなな人はみな、真理の知識を得ることはでない。神は、疑惑の種を全部取り去られることはない。神は信仰を持つだけの十分の証拠をお与えになる。そして、人がそれを受け入れなければ、人の心は暗黒に閉ざされる。もしも、へびにかまれた人々が、見ることを承知する前に、疑ったり質問したりしていたならば、彼らは死んでしまったことであろう。まず、見ることがわれわれの義務である。そして、信仰をもって見ることが、われわれに命を与えるのである」(人類のあけぼの下巻p33-36)。