今課では、「白い亜麻布」について研究していきます。罪人が聖所に目を向けるとき、最初に見えるのは、「白い亜麻布」だけです。なぜなら、聖所の庭は、亜麻の撚糸の垂幕で囲まれていたからです(出エジプト記38:16)。「光り輝く、汚れのない麻布」は、「聖徒たちの正しい行い」を表しています(黙示録19:8)。しかし、聖徒たちの正しい行い(義)は、キリストの義の衣なのです。なぜなら、聖書は、それが彼らに「与えられた(granted:着ることを許された)」と教えているからです。そうです、それは、無限の値をもって私たちのために買い取られたものなのです。そして、それはお金では買うことのできない高価なものであるため、私たちには「金を出さず」に「ただで」与えられました(イザヤ55:1、52:3)。庭と聖所の門には、幕がありましたが、これもまた、白い亜麻布で作られていました(出エジプト記27:16、36:35,37)。これによって、私たちは、ご自分のことを「わたしは道であり」また「門」であると仰せになったイエス・キリストに導かれるのです(ヨハネ14:6、10:9)。特別にこの幕に関して、パウロは「彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いてくださった新しい生きた道をとおって、入っていくことができるのであ」ると説明しています(ヘブル10:20)。祭司の服もまた、白い亜麻布でできていました(出エジプト記28:2)。「普通の祭司の衣服は白亜麻で、一つ織りになっていた」(人類のあけぼの 上巻p412)。したがって、これらすべては、神の小羊であるイエスの純潔な生活とご品性を表しています。

悔い改めた罪人が、聖所に近づくとき、何よりも先にまず目に入ったのは、白い色の亜麻布だけでした。そして、彼が近づくにつれ、その「白さ」をもっとはっきり見ることができました。これと同様に、今日わたしたちが悔い改めた罪人として、世の罪と快楽から目を転じて、私たちの大祭司が働いておられる天の聖所を仰ぐとき、私たちもまた、大祭司の義の純粋さをはっきり認めるようになり、またそれにおおわれたいと切望するようになります。私たちが、信仰によって、天の聖所の門に来るとき、私たちは、キリストの砕かれた肉体、すなわち地上でのご生涯とご品性のうちに表されたその義を、もう一度眺めるようになります。信仰によって、私たちが天の聖所で働いておられるイエスを眺めるとき、イエスが細い声で私たちに『あなたに必要なのは、わたしの義でおおわれることである』と仰せになっているのを聞くのです。

ですから、「私たちがイエスに近づけば近づくほど、そのご品性の純潔さをはっきり認めるようになる。さらにはっきりと、罪のはなはだしい罪深さを悟るようになる。そしてますます自分を高めようとはしなくなる。天に聖なるものとして認められる者は、自分自身の善を誇示することがない。神の近くに生きる人たち、知っている悪行を行うよりは命そのものを犠牲にする人たち、神に天来の光と力をもって誉を与えられてきた人たちは、自分の罪深い性質を告白してきた。彼らは、肉に信頼を置くことなく、自分自身の義を主張することもなかった。ただ、完全にキリストの義に信頼していた。救い主を眺める者はすべてそうなるのである」(ユース・インストラクター1902.6.5)。
自分自身の「裸である」状態に気づき、おおわれたいと望む者には、「白い亜麻布」がその答えとなります。「あなたは自分の罪深さに気づいているだろうか?罪を嫌悪しているだろうか?そして、キリストの義はあなたがつかんだときに初めて自分自身のものになるということを覚えなさい。あなたは、キリストを受け入れるときに、自分の足の下にどんなに強固な基礎がすえられるかを見ることができないだろうか?神は、ご自分のひとり子の供え物を世の罪のための完全な贖いとしてお受け入れになったのである」(信仰によって私は生きる3月26日)。

人間が罪を犯した直後、自分たちが裸であることに気づいて、自分たちをいちじくの葉でおおってみようと試みたことには、注意を払う意味があります。しかし彼らが自分の裸をおおうために、彼らの(とった)方法と努力は、十分ではありませんでした。十分でないばかりでなく、おおうのは不可能でした。彼らは、自分たちの望みのない状態を悟って、恐ろしくなり、自分たちの恥のために身を隠しました。恵み深い天父は、彼らに「皮の衣」を備えてくださり、それで彼らをおおってくださいました。そのとき以来、自分たちの罪深さにふるえる魂に向けて、神は「そこで、あなたに勧める。…あなたの裸の恥をさらさないため身につけるように、白い衣を買いなさい」というメッセージを送っておられます(黙示録3:18)。ですから、私たちは、神がはじめから(創世記3章)終わりまで(黙示録3章)、すべての人間に望んでおられることは、私たちがキリストの義である「白い衣」によっておおわれることであると理解するのです。「キリストご自身の備えてくださった衣だけが、私たちを神の臨在の前に立たせてくれるのである。キリストはこのおおい、すなわち主ご自身の義の衣を、悔い改めて信ずる一人一人の魂に着せてくださるのである。…天の織機で織られたこの衣には、人間の創意による糸は一本も含まれていない。キリストは人性をおとりになって完全な品性を形成された。そしてこのご品性を私たちに分け与えてくださるのである。『われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである』(イザヤ64:6)。私たちが自分でなし得ることは、すべて罪で汚れている」(キリストの実物教訓p291)
「ここで、何千もの人が失敗するのである。彼らは、イエスが彼らを個人的に一人ひとり許してくださるだということを信じない。彼らは、神をそのみ言葉どおりに信じないのである。条件にしたがうならだれでも、許しがすべての罪人にただで与えられるのだということを自分自身で知ること特権にあずかる。神のみ約束があなたにはあてはまらないのではないかという疑いを捨てなさい。約束は、悔い改めるすべての罪人のためである。力と恵みは、仕える天使たちによってすべての信じる魂にもたらされるようにと、キリストを通して備えられてきた。罪人のために死なれたイエスにある力と純潔、そして義を見出すことができないほど罪深い者は、だれ一人としていない。イエスは、罪のしみがつき汚れた彼らの衣を脱がせ、義の白い衣を彼らに着せようと待っておられる。彼は、彼らに死なずに生きよとお命じになる」(信仰によって私は生きる5月8日)。
「だから、来て、探して、見出しなさい。力の宝庫は開かれており、満ちあふれていて、ただである。神の恩寵を受けるために何かよい働きをしなくてはならないとか、キリストの許に来ることができる前に自分自身をもっとよい者にしなくてはならないなどと考えることなく、謙遜な心で来なさい。あなたにはよい行いをする力がなく、また自分自身をよりよい状態にすることもできない。キリストから離れては、私たちにはなんの功績もなく、義もないのである。キリストのしみのない義におおわれるのでないかぎり、私たちの罪深さ、弱さ、人間の不完全さのゆえに、私たちが神の御前に出ることは不可能である。私たちは、自分自身の義ではなく、キリストのうちにある義をもって、キリストのうちに見出されなくてはならない。それだから、すべての名の上にある名、人々のあいだに与えられた人間がそれによって救われることのできる唯一の名をもって、神の約束を自分のものとして主張しなさい。「主よ、わたしの罪をお許しください。助けを求めて、わたしの手をあなたの手のうちにあずけます。私にはどうしても助けが必要であり、それがなければ滅んでしまいます。私は、いま信じます」。救い主は、悔い改めた罪人に「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と仰せになる(ヨハネ14:6)。「わたしに来る者を決して拒みはしない」(ヨハネ6:37)。「わたしはおまえの救いである」(詩篇35:3)」(セレクテッド・メッセージ1巻p333,334)。
「神は、ご自分の愛を信じて、差し出される救いを受け入れるすべての者に、許しと、悪に対する恩赦、そして義の賜物の祝福を与えようと待っておられる。キリストは、いつでも悔い改めた罪人に『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう』(ゼカリヤ3:4)と仰せになる用意をしておられる。イエス・キリストの血は、罪人のために語る雄弁な嘆願である。この血は、『すべての罪からわたしたちをきよめ』るのである」(牧師への証p517)。「義は、律法への服従である。律法は、義を要求し、罪人は律法に対してこの負債がある。しかし彼は、これを支払うことができない。彼が義を手に入れることのできる唯一の方法は、信仰を通してである。信仰によって、彼は、キリストの功績を神に差し出すことができる。そして主は、ご自分のひとり子の服従を、罪人の勘定としてくださるのである。人間の失敗のかわりにキリストの功績が受け入れられる。神は、悔い改めて信じる魂をお受けになり、許し、義とされる。そして、罪人が義であるかのように扱ってくださり、ご自分のひとり子を愛されたように、彼を愛してくださるのである。これが、どのようにして信仰が義とみなされるかであり、また許された魂が恵みから恵みに、光からより大きな光へと進んで行くかである」(セレクテッド・メッセージ1巻p367)。そうです!これが私たちの「イエス・キリストの義である」「白い亜麻布」から学ぶことのできる教訓です。私たちは、この章で、もっと詳しく学んでいきます。イエスが、この衣でおおわれる者に何と言われるかを聞いてみましょう。「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」(黙示録16:15)。

創造されたときの人間

「神が人を創造されたとき、神にかたどって造」られた(創世記5:1)。「見よ、わたしが得た事はただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に造られた」(伝道の書7:29)。「神が人類を最初に聖なるエデンに置かれたとき、彼らが着ていたのは純潔という白い衣であった。彼らは神のみ心に完全に一致した生活を送った。彼らの深い愛情はことごとく天の父にささげられた。美しく柔らかい光――神の光――が罪を知らぬアダムとエバを包んだ。この光の衣は、天与の純潔という霊的な着衣の象徴であった。もし彼らがずっと神に真実を尽くしていたら、彼らはいつまでもその光に包まれていたはずであった」(キリストの実物教訓p290,291)。

罪を犯した後の人間

「しかし罪が侵入したとき神とのつながりは断たれ、それまで彼らを取り囲んでいた光は消え去った。彼らは裸となった自分の身を恥じて、いちじくの葉を縫いあわせておおいを作

り、それを天の衣の代りにしようとした」(キリストの実物教訓p291)。「これまでなごやかで一様だった気温が、罪を犯した二人にはだ寒く感じられた。これまで彼らの心に宿っていた愛と平和はなくなり、その代りに罪の意識と未来への恐怖と魂の空虚さとを感じた。彼らをとりまいていた光の衣は消えてしまった」(人類のあけぼの 上巻p45)。「アダムとエバがエデンで聖なる衣を失ったとき、彼らは自分たちを輝かしていた光を失ってしまった。彼らは、もはや物事を正しく理解することができなくなった」(教会への証8巻p324)。

いちじくの葉

「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(創世記3:7)。「これは、アダムとエバが律法に逆らった以来、神の律法に違反した者が用いてきたおおいである。彼らは、自分たちの裸をおおうためにいちじくの葉をつづり合わせてきた。いちじくの葉は、不従順を隠すために用いられる論拠を象徴している。主が、男女の注意を真理に向けようとなさるとき、魂の裸を隠すために、いちじくの葉で前かけを作ろうとする働きが始まる。しかし、罪人の裸をおおうことはできない。この浅はかな働きに関係しているすべての者がつづり合わせるいかなる論拠も、無に帰するのである」(SDAバイブル・コメンタリ[E.G.Whiteコメント]1巻p1084)。

皮の衣

この罪人をおおうための皮の衣は、その動物の犠牲によるものでした。したがって、この白い礼服、もしくは皮の衣は、神の小羊であるイエスによってのみ与えられるのです。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」(創世記3:21)。「アダムとエバは、頭をうなだれて言いあらわせない悲しみをいだきつつ、神の命令にそむくまではとても幸せに暮らしていた美しい園を去った。大気は変わっていた。もはや、違法を犯す前のように一様ではなかった。神は、身に感じる寒さや、またこれからさらされる暑さから彼らを守るために、彼らに皮の衣を着せられた」(預言の霊1巻p49)。

彼の義を着せられる

許されるために/過去の罪の記録を消去する
「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである」(詩篇32:1)。「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救いの衣を着せ、義の上衣をまとわせて花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」(イザヤ61:10)。「主イエス・キリストは、おおい、すなわち彼ご自身の義の上衣を備えてくださった。それは、信仰によってその上衣を受けるすべての悔い改めた信じる魂に、ご自分がそれを着せるためである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1898.11.15)。「女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』。」(ヨハネ8:11)。「私たちが、キリストの義を着せられるとき、罪に対する興味がなくなる。なぜなら、キリストが私たちと共に働かれるからである。私たちは、過ちを犯すかもしれない。しかし、私たちは、神のみ子に苦悩をもたらす原因となった罪を憎むのである」(セレクテッド・メッセージ1巻p360)。

イエスの命を生きるために、そしてそのご品性を自分のものとするために「人が自分自身の心をキリストにささげるとき、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と一つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、私たちはキリストの命を生きる。これがキリストの義の衣を着ることである」(キリストの実物教訓p292)。

白くて汚れのない

「彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(黙示録19:8)。「教会は『しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、』『汚れのない麻布の衣を着る』のである。主を自分の救い主として受け入れるすべての者に信仰を通して与えられるのは、キリストの義であり、…キリストはこのおおい、すなわち主ご自身の義の衣を、悔い改めて信ずる一人ひとりの魂に着せてくださるのである」(キリストの実物教訓p290,291)。

義認/ゆるし

「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ5:1)。「義認は許しを意味する。それは、心が、死んだわざからきよめられて、聖化の祝福を受ける準備が整うことである」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1902.12.17)。「信仰による義認とは何であろうか?それは、人間の栄光をちりにふさせ、人間が自分の力ではなし得ないことを人間のためにしてくださる神の働きである。人が、自分の無価値なことを悟るとき、キリストの義を着せられる準備ができるのである」(信仰によって私は生きる4月15日)。「神は正しい方であり、またキリストの功績を通して罪人を義とすることがおできになるが、人間はだれ一人として、知っている罪を犯したり知っている義務をなおざりにしたりしながら、自分自身の魂をキリストの義の衣でおおうことはできない。神は、この義認が行われる前、心を完全に明け渡すことを要求される。そして、人がこの義認を維持するためには、生きた信仰、すなわち愛によって働き魂を清める信仰を通して、たえず服従しなければならない」(信仰と行いp100)。「義認の祝福は、たえず意志を明け渡し、また、たえず服従することによって維持することができる」(セレクテッド・メッセージ1巻p397)。

礼服(キリストのご品性)

「彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここに入ってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた」(マタイ22:12)。「礼服は、婚宴にふさわしい客と認められる者がみな所有しなければならない品性をあらわすのである」(キリストの実物教訓p287)。「礼服のたとえ[マタイ22:1-14]は、私たちの前にもっとも重要な教訓を示している。…このたとえの中の礼服によって、キリストに心から従う者がもつ純潔でしみのない品性があらわされている。…聖書は、美しい麻布が『聖徒たちの正しい行い』であると言っている。それは、キリストの義、すなわち彼ご自身の汚れのないご品性であって、彼を自分の個人的な救い主として受け入れるすべての者に、信仰を通して与えられるのである」(驚くばかりの恵みp24)

神は罪人を罪を犯したことがない者のようにご覧になる

「わたしは、あなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」(イザヤ44:22)。「自分たちのうちにあっては、私たちは罪人である。しかし、キリストのうちにあるなら、私たちは義とされる。キリストの義を着せられることによって義とされ、神が私たちを義人であると宣言なさり、私たちを義人として扱われる。神は、私たちを愛する子としてご覧になる」(セレクテッド・メッセージ1巻p394)。「悪に染み汚された罪人のためになされた偉大な働きは、義認である。真理を語られるおかたによって、罪人に義が宣言される。主は、信じる者にキリストの義を着せられ、彼を宇宙の前で義人として宣言なさる。神は、その罪を、罪人の代理人であり、身代りであり、保証人であられるイエスに移されるのである」(セレクテッド・メッセージ1巻p392)。

イエスはあなたが覆われることを望んでおられる…

「そこで、あなたに勧める。…あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい」(黙示録3:18)。ここにおおわれるための条件があります、「『彼の汚れた衣を脱がせなさい』。またヨシュアに向かって言った、『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう』。」(ゼカリヤ3:4)。「あなた自身の衣は汚れていて、あなた自身の精神と習慣は世的で腐敗している。イエスはあなたに、それらを脱ぎ、ご自分が用意なさった汚れのない白い衣を着るようにと勧めておられる。あなたは、自分を義とする衣を脱ぎ捨て、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるだろうか。こうすることによって、あなたは、主イエスの義を受け入れ、あなた自身の罪と汚れの衣を厭い、キリストの義の衣を着るのである」(ユース・インストラクター1886.8.11)。「だれでもイエスのもとに来て、キリストに満ちみちているものを受けることができる。イエスは、『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』と仰せになっている(マタイ11:28)。それなら、すべての不信をわきへ投げ捨て、イエスの言葉に耳を傾けようではないか。あなたは、休息を望んでいる。あなたは、平安を切望している。それなら、心から、『主イエスよ、わたしは参ります、なぜならあなたがわたしを招いてくださったからです』と言いなさい。堅い信仰をもって彼を信じなさい。そうすれば、イエスは、あなたを救われる。あなたは、あなたの信仰の導き手であり完成者であられるイエスを仰ぎ見てきただろうか。あなたは、まことと恵みに満ちあふれたおかたをながめてきただろうか。あなたは、キリストだけがお与えになることのできる平安を受け入れてきただろうか。もし、そうしてこなかったなら、キリストに自分を明け渡し、そのみ恵みによって、尊い高尚な品性を追い求めなさい。命のパンであられるキリストを食しなさい。そうすれば、そのご品性と霊の美しさをあらわすようになるのである」(セレクテッド・メッセージ1巻p398)。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ3:3)。