四千年以上もの間、形式は徐々に変わってきたものの、犠牲のいけにえをささげるために建てられた祭壇は、罪人にとがの恐ろしさとその報いから逃れる方法を思い出させるものとして存続してきました。

堕落の後、アダムとエバは、神の敵となりました。別の言葉でいえば、彼らの思いは肉の思いになったということです。『肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。』(ローマ8:7)。神のご計画は、彼らの肉の思いを霊的なものへと取り戻すことでした。人間の思いにこの変化が起こるためには、神はへび、すなわちサタンの力を打ち破られねばなりませんでした。しかし、どのようにしてでしょうか。ご自分の恵みとあわれみによって、はじめの父祖の前で、神はへびに『わたしは恨みをおく、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう』と宣告なさいました(創世記3:15)。『アダムとエバが聞いているところで語られたこの宣告は、彼らにとっては、約束であった。そこには、人間とサタンとの戦いが予告されていたが、この大敵の力がついに砕かれることが宣告されていた。…彼らは、大いなる敵の力に苦しまなければならなかったが、最後の勝利を待望することができたのである。』(人類のあけぼの 上巻58)。『救い主の約束が与えられ、大いなる罪祭、キリストの死を予表した犠牲制度が設けられた。』(人類のあけぼの上巻430)

燔祭の祭壇は、ただ犠牲の動物とその脂肪がささげられるための場所にすぎませんでした。神は『アベルが、その群れのういごとその脂肪を持ってきた』とき、喜ばれました(創世記4:4英文訳)。
それは、本当に『まさったいけにえ』でした(ヘブル11:4)。そうです!彼はキリストを信

じる信仰によってこれをささげました。神が犠牲とその原則に関して、モーセを通して命じられたことに従って、悔い改め罪人は自分の罪を告白し、また自分自身の手で動物を殺しました。そして、その死んだ犠牲から脂肪を取り分けて祭司に渡すと、祭司はそれを祭壇の上で燃やさなくてはなりませんでした。『そのすべての脂肪は…犠牲から…取り』(レビ記4:31)、そして『手ずから…その脂肪と胸とを携え…なければならない。…そして祭司はその脂肪を祭壇の上で焼かなければならない』(レビ記7:30-31)という指示が与えられていました。

しかし、なぜ脂肪なのでしょうか。脂肪は、罪をあらわしています。『しかし、悪しき者は滅び、主の敵は小羊の脂肪のようになって、彼らは燃え尽き、煙のように消えうせる』(詩編37:20英文訳)。イスラエルの不従順な子らに神は、『あなたは燔祭の羊をわたしに持ってこなかった。…犠牲の脂肪を供えて、わたしを飽かせず、かえって、あなたの罪の重荷をわたしに負わせ、あなたの不義をもって、わたしを煩わせた』と仰せになっています(イザヤ43:23-24)。別の言葉で言えば、彼らは自分の生活から罪を分離させ、唯一それに終わりを告げることのできるおかたにその罪を渡さなかったということです。脂肪が祭壇の上に置かれたとき、それは燃やされました。そして悔い改めた罪人は、その光景を自分の目で目撃したのです。それは、彼に罪と罪人の避けられない結果を生々しく印象づけました。彼はその中に、罪と罪人から離れることができるうちに自分から喜んでそうしなかったすべての者の最終結果である灰しか見ることができないのでした。『万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない。…悪人[は]、…灰のようになると、万軍の主は言われる。』(マラキ4:1-3)。

最初から、「燔祭の祭壇」は、後に続く世代にイエス・キリスト、すなわち罪人のために犠牲になられた「神の小羊」を示していたのでした。言いかえれば、「燔祭の祭壇」は「十字架の型」でした。それは、罪人が神の許しとそのかたとの和解を望むなら、それらを見出すために、どこへ行く必要があるのかを彼らに教えるのです。

十字架!それはあなたにとってどのような意味がありますか。多くの人は十字架を何か持ち運びのできる装飾品のように考え、あるいは建物の天辺にのせて自分たちがキリストの犠牲の象徴を大事にしている考えています。それでは、それが神の意図されたことでしょうか。いいえ、違います!では、十字架とは何でしょうか。それは、罪人が自分の罪の生活に最後の別れを告げ、最終的な勝利を望み見る場所です。イエス・キリストの十字架は、『苦悩と恐怖の象徴』であり(各時代の希望 下巻277)、『キリストの受難の象徴』なのです(各時代の大争闘 下巻324)。では、何のためにあるいはだれのために受難でしょうか。それは罪人のためでした。神は私たちがこのことについて考えることを望んでおられます。罪人のために、キリストの命、すなわち神の尊いひとり子が、十字架上で死なれたのです。「カルバリーの十字架を見なさい。それは、限りない愛と天父の比類ないあわれみの変わることのない誓約なのである。」(驚くばかりの愛73)。そうです!神はあなたをそれほどまでに愛しておられるのです。「もしあなたがそのかたの愛に対する目に見える証拠を望むなら、カルバリーの十字架を見なさい。」(神のむすこ娘たち246)

キリストが悔い改める罪人に許しを与えるために十字架で死なれたとき、次のように嘆願なさいました。わたしがこの罪のくびきを負うことを承諾したのは、あなたのためである。…わたしはあなたのために、犠牲として自分を十字架上にささげたのである。そして、これはあなたを愛するがゆえである(各時代の希望 下巻278参照)。「私たちのために何という値が支払われたことであろう!十字架を眺めてその上に掲げられた犠牲を見なさい。残酷なくぎに刺し通された手を見なさい。大きなくぎで木に打ちつけられた足を見なさい。キリストは私たちの罪をご自分の身に負われた。この苦しみ、この苦痛はあなたの贖いのための代価なのである。」(天国で222)。「カルバリーの十字架は、私たちにとって永遠の命の保証である。」(伝道186)「罪によってできた淵に、カルバリーの十字架によって橋がかけられた。」(信仰と行い93)。そうです!そのかたは、罪人のために死なれたのです。犠牲制度において、祭司は悔い改める罪人が死んだ動物から脂肪を取り分けて、自分に渡すのを待っていました。それは、罪を象徴するその脂肪を祭壇の上で焼くためでした。これと同様に「わたしたちの大祭司なるイエス」(ヘブル4:14参照)は、私たち一人ひとりが、自分の罪を告白して、ご自分の十字架の許にひざまずくのを待っておられます。そうすれば、それと引き換えに私たちにご自分の許しを与え、ご自分の義の衣を私たちに着せて、そして私たちの罪を終わりの日の火で焼き尽くすことがおできになるからです。「カルバリーの十字架から、キリストは無条件的な自己放棄を要求しておられる。」(信仰によって私は生きる244)

「私たちは、天のみ父が無限の愛をもって私たちを愛して下さっていることを、十字架によって学ぶのである。…十字架を誇りとし、私たちのためにご自身をお与えになった主に私たちを全くささげることは、私たちの特権でもある。そのときに、カルバリーの十字架から流れる光を顔に受けて、この光を暗黒にある者たちへあらわすために出かけて行くことができるのである。」(患難から栄光へ上巻226)ここにイサク・ワッツによって書かれた美しい讃美歌があります。
「ああ、わたしの救い主は血を流され、わが君は死なれたのか?そのかたは、わたしのような者のためにその聖なるみかしらをささげられたのか?そのかたが木の上で苦しまれたのは、わたしが犯した罪のゆえなのか?驚くばかりのあわれみ、知りがたき恵み、はかりがたき愛よ!しかし悲しみの涙は、決してわたしに賜わった愛を償うことができない。主よ、今ここにわたしをおささげします。わたしのできることはこれだけです。十字架で、わたしがはじめて光を見た十字架で、わが心の重荷は取り去られた。その場所で信仰によってわたしの目は開かれ、いまは喜びに絶えることがない。」

燔祭の祭壇とは?

これは、神が犠牲をささげるためにお定めになった場所です。神がお命じになり、モーセがそれに従いました、「またアカシヤ材で燔祭の祭壇を造った。長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。その四すみの上に、その一部とし、それの角を造り、青銅で祭壇をおおった。…また祭壇のために、青銅の網細工の格子を造り、これを祭壇の出張りの下に取りつけて、祭壇の高さの半ばに達するようにした。また青銅の格子の四すみのために、環四つを鋳て、さおを通す所とした。アカシヤ材で、そのさおを造り、青銅でこれをおおい、そのさおを祭壇の両側にある環に通して、それをかつぐようにした。祭壇は板をもって、空洞に造った」(出エジプト記38:1-7)。燔祭の祭壇は、どこにあったのでしょうか。「庭の中には、入口に近いところに、燔祭のための青銅の祭壇があった」(人類のあけぼの 上巻408)。この燔祭の祭壇の目的は何でしょうか。「この祭壇の上で、すべての犠牲は火に焼かれて主にささげられ、その角には贖いの血が注がれた」(人類のあけぼの 上巻408)。脂肪は、庭の燔祭上で焼きつくされましたが、犠牲の体は、陣営の外で焼かれました(レビ記4:1-21参照)。

罪人が最初に来るところ
自分の罪が許されるために、罪人が必要としている最初のものです。「また燔祭の祭壇を会見の天幕なる幕屋の入り口の前にすえ」なさい。(出エジプト記40:6)。「庭の中には、入口に近いところに、燔祭のための青銅の祭壇があった」(人類のあけぼの上巻408)。

犠牲のために定められたところ

神は、秩序の神です(コリント第一14:40)。ですから、そのかたは、犠牲の動物がどこへ連れてこられなければならないかを特別にお命じになりました。「その子牛を会見の幕屋の入り口に連れてきて主の前に至り」(レビ記4:4)、「燔祭をほふる場所で、その罪祭をほふらなければならない」(レビ記4:29)。この指示は、私たちにとって非常に重要です。なぜなら、私たちは自分自身を生きた供え物として自分自身をささげるようにと招かれているからです。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。「自己犠牲の祭壇で、すなわち神とたましいが出会う場所として定められた場所で、私たちは、神の御手から心を探る天の灯火をいただく。それによって、キリストの内住をおおいに必要としていることが明らかにされるのである」(レビュー・アンドー・ヘラルド1907.1.31)。

告白と悔い改めのために定められた場所

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪を許し、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネ第一1:9)。
「無限の愛のおかたの広い心は、限りない同情をもって罪人に引きつけられている。…神は、人間のうちにご自分の道徳的かたちを回復したいと望んでおられる。あなたが告白と悔い改めをもって神に近づくなら、そのかたは、めぐみと許しをもってあなたに近づいてくださるのである」(驚くばかりのめぐみ82)。

自己を明け渡すために定められた場所

「神は、私たちに自分自身を生きた焼き尽くす犠牲として、奉仕の祭壇にささげるようにと召しておられる。私たちは、あますことなく、私たちの全所有と全存在をもって神に献身するべきである」(今日を神と共に145)。「神の御座からカルバリーの十字架にまで来られたのキリストの使命は、あまりにも漠然としか理解されず、かすかにしか把握されていない。これは、もっともっと人の思いに明らかにされ、キリストの犠牲のうちにその他すべての愛の使命の泉と原則が見出されることがわかるであろう」(レビュー・アンドー・ヘラルド1894.10.30)。「キリストの地上生活全体は、祭壇への準備であった。キリストは、私たちに、ご自分の苦しみとへりく

だりのかぎを指し示された。それは、神の愛である」(レビュー・アンドー・ヘラルド1900.7.17)。

神が答えられる場所

「神ご自身が灯され保ってこられた聖なる火が、彼らの手にある。このことに関して指示が与えられた。神は、「祭壇の上に」(レビュー・アンドー・ヘラルド1894.5.15)。「彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう」(詩篇91:15)。「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されていることを、あなたに示す」(エレミヤ33:3)。

祭壇の角

「その四すみの上に、、その一部とし、それの角を造り、青銅で祭壇をおおった」(出エジプト記38:2)。聖書では、角は、力と権力の説明として用いられています。「しかし、あなたはわたしの角を野牛の角のように高く上げ」られた(詩篇92:10)。「ある動物にとっては、角は攻撃や防衛のための武器となる。ハンナは、この象徴を用いることによって、自分の解放が神から来ることを認めたのである」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1881.10.27)。「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、…わが救いの角、わが高きやぐら、わが避け所、わが救主。あなたはわたしを暴虐から救われる」(サムエル下22:2-3)。また、黙示録の著者ヨハネは、イエス・キリストを見ました。「小羊…に七つの角…があった」(黙示録5:6)。角は、避け所を表しています。「すずめがすみかを得、つばめがそのひなを入れる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください」(詩篇84:3)。私たちが「生きた供え物」になることを願うとき(ローマ12:1)、イエスは、私たちを招いて自分自身を祭壇の角に結び付けるようにと仰せになります。「主は神であって、われらを照らされた。枝を携えて祭の行列を祭壇の角にまで進ませよ」(詩篇118:27)。


灰は、悔い改めない者が避けることのできない運命を指し示しています。言いかえれば、罪と罪人の、さらに罪の創始者の「最後」です(詩篇73:17)。「また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる」(マラキ4:3)。十字架上のキリストの死は、死の力を持つ者、すなわち罪の創始者の滅亡を確かにしたのです。

カルバリーの十字架
燔祭の祭壇で、型であった動物が殺されました。十字架上で、その動物の本体であられる神の小羊がはりつけになりました。「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」(コリント第一5:7)。「神のひとり子はご自分の上に人性を取り、地と天の間にご自分の十字架を据えられた。この十字架を通して、人間は神に、神は人間に近づくのである。正義は、その高く恐るべき位置から場所を移り、天の万軍、すなわち聖なる軍団は、十字架の近くに引きつけられ、崇敬の念をもって伏すのである。なぜなら、十字架において正義は満足させられるからである。十字架を通して、罪人は、罪の要塞から、また悪の同盟から引き出される。十字架に近づくごとに、彼の心は和らげられ、悔いた心で叫ぶのである。「わたしの罪が神の御子を十字架につけたのだ」。彼は、自分の罪を十字架に残し、キリストの恵みによって、その品性が変えられるのである。贖い主は、罪人をちりから起こされ、聖霊の導きの下に置かれます。罪人が贖い主を見上げるとき、彼はそこに、希望と保証と喜びを見出すのである」(セレクテッド・メッセージ1巻 349)。   「十字架は私たちを神の下へ連れて行き、私たちを神に和解させる。父親の愛の優しい同情をもって、エホバはご自分のひとり子が人類を永遠の死から救うために耐え忍ばれた苦しみをご覧になる。そして私たちを愛する御子のうちに受け入れてくださるのである(SD344)。