金の祭壇あるいは香壇は、聖所の第一の部屋の幕の前に置かれていました。すでに学びましたように、第一の部屋にあるすべての器具は、金でできているか、あるいは金でおおわれていました。これは、新しく生まれたクリスチャンがこの場所で体験することはすべて、黄金の経験であることを示しています。

この香壇の上で、香ばしく(出エジプト30:7)、絶やされることのない(出エジプト30:8)、また純粋な(出エジプト37:29)香がたかれました。それは世の罪のための神の小羊であられるイエスの功績と義とを象徴しています。この香は、神の指示の下に造られました。ですから、だれ一人としてこの香をそのまま真似てはなりませんでした。なぜならそれは、とても神聖なものだったからです。そしてもし、だれかが香水としてなど、個人で使うためにこれを造ったならば、その人は殺されるのでした(出エジプト30:34-38参照)。神ご自身が、それをどのように造るかを指示なさいました。「また、その幾ぶんを細かに砕き、わたしがあなたと会う会見の幕屋にある、あかしの箱の前にこれを供えなければならない。これはあなたがたに最も聖なるものである。」(出エジプト30:36)。なぜ、それはとても細かに砕かれたのでしょうか。私たちは、自分たちの贖いのために払われたイエス・キリストの犠牲を深く考え、瞑想するようにと命じられています。「そのかたの大いなる愛について考えてみなさい。私たちがそのかたを信じるようにと私たちのためになされた自己否定や無限の犠牲についてあなたが瞑想するとき、あなたの心は聖なる喜びと、平穏、そして言い表しがたい愛に満たされるであろう。私たちがイエスのことを語るとき、また私たちが祈りのうちにそのかたに呼ばわるとき、そのかたが私たちの個人的な愛する救い主であるという確信が強められ、そのかたのご品性がますます麗しいものとして映るようになる。…信仰をもってそのかたを待ち望みなさい。主は祈りのうちに魂を引き寄せ、私たちにご自分の尊い愛を感じさせてくださる。

私たちはそのかたの近くへ行き、そのかたと心地よい交わりを持つことができる。私たちはそのかたのやさしさと同情をはっきり認める、そして私たちの心は私たちに与えられた愛を熟考することによって、砕かれ溶かされるのである。」(神のむすこ娘たちp311)

黙示録の書に、ヨハネは薫香の煙が聖徒の祈りとともに神のみ前に立ちのぼるのを見ました。キリストの義によって芳しいものとされた私たちの祈りは、聖霊によって御父の前に持ち出されます。それは幻の中で啓示者に、無限のかたの御座の前にたちのぼる芳しい香とともに祈りを含んだ煙の雲ように見えました。最も弱い神の子も、罪のないイエスの御名によって恵みのみ座に自分の嘆願を届けることを知っているなら、天の宝を思うままにわがものとすることができるのです。「宗教的な奉仕、祈り、讃美、悔いくずおれた罪の告白は信じる者から香として天の聖所へと立ちのぼる。…それらは、汚れのない純潔のうちに立ちのぼるのではない。したがって、神の右に仲保者がご自分の義によってすべてを提示し清めるのでなければ、神に受け入れられないのである。地上の幕屋から立ちのぼった香はすべてキリストの血の清める滴りによって湿っていなければならない。そのかたは、地上の堕落の害毒が入っていないご自分の功績の香炉を持って、御父の前に立たれる。そのかたは、ご自分の民の祈り、讃美、そして告白をその中に集めて、これらと一緒にご自分のしみのない義を入れられる。それから、キリストの嘆願の功績にかおり、その香は神の御前に完全にまったく受け入れられるものとして立ちのぼるのである。そして、恵みに満ちた答えが戻ってくるのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻p344)

型において、香はいつも立ちのぼっていましたが、これは昼夜を問わずいつでも、へりくだった魂が助けを求めたり、あるいは受けた祝福のために感謝したり讃美したりするとき、その人の祈りは聞かれたということを表わしていました。朝、人間の力ではその日の義務をとても負いきれないと思えるとき、重荷を負った魂は、型において毎朝新しく備えられた香が豊かに香壇の上に置かれたと同じように、本体である天の聖所から、イエスの御名によって神の助けを叫び求める者には、その日の助けが与えられたことを思い出すのです。「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」(申命記33:25)。夕には、一日の働きを振り返って、それが罪によって損なわれたことがわかったときにも、祝福に満ちた約束があります。私たちがひざまずいて自分の罪を告白するとき、型において香の煙が祭司をおおったように、天ではキリストの義である芳しい香が私たちの祈りに加えられることを知っています。「主の前で薫香をその火にくべ、薫香の雲に、あかしの箱の上なる贖罪所をおおわせなければならない。こうして、彼は死を免れるであろう。」(レビ記16:13)。このように、私たちが自分の罪と欠点を告白するとき、キリストの義がその日の過ちをおおってくださるのです。そして、天父が私たちをご覧になるとき、しみのないキリストの義の衣しかご覧にならないのです。「祈りによって、心は直ちに命の涌き出る泉に触れるようになる。そして宗教的経験の腱と筋肉が強められる。祈ることを怠ったり、祈るにしても、時たま発作的に自分の都合に合わせて祈るだけだったりすれば、あなたは神にしっかりつながっていることができない。霊的な機能はその生命力を失い、宗教的な経験には健全さと活力が欠けるようになる。私たちが神の火を自分たちの灯心にともすことができるのは、ただ神の祭壇においてのみである。人間の能力の小ささや無力さを明らかにし、キリストの完全さと純潔とに対するはっきりとした見識を与えるのは、ただ神の光だけである。私たちがイエスのようになりたいと切望するようになるのは、ただ私たちがそのかたを眺めるときであり、私たちがそのかたの義を自分のものにしたいと飢え渇くようになるのは、それをよく見るときだけなのである。そして、神が私たちに心の願いをかなえてくださるのは、私たちが熱心な祈りのうちにたずね求めるときだけなのである。」(福音宣伝者p254-255)

日ごとの務めにおいて香をささげるときほど、祭司たちを神のみ前に近づかせる行為はありませんでした。同様に、宗教経験において、熱心な祈りのうちに自分たちの魂を注ぎだすときほど、私たちを自分たちの天父の近くに引き寄せるものはないのです。神はご自分のしもべたちに、香をもってどのようにそのかたに仕えるかをお命じになりました。「あなたはそれを、…わたしがあなたと会うあかしの箱の上にある贖罪所に向かわせなければならない。」(出エジプト30:6)。「主の前で薫香をその火にくべ、…」(レビ記16:13)。「また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈りに加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。」(黙示録8:3)。

金の香壇は、「絶えずなされる、あるいは常供のとりなしの祭壇」であり、神の民がそのかたの前に絶えずやってきてささげる祈りを象徴していました。一方、青銅の祭壇は、「常供の贖罪の祭壇」であり、私たちを神から引き離し、私たちの祈りが聞かれないようにする唯一のもの、すなわち罪を取り除いて破壊することを象徴していました。「至聖所のとばりの前には、絶えずとりなしの行われる祭壇があり、聖所の前には常供の贖いの祭壇があった。血と香によって、人間は神に近づくことができた―――これらは、偉大な仲保者キリストを指し示す象徴であった。この仲保者を通して、罪人は主に近づくことができ、また、このキリストを通してはじめて、あわれみと救いが悔い改めて信じる魂に与えられるのである。」(人類のあけぼの上巻p416)

キリストの義の香が加えられたすべての祈りは、天の香壇に貯えられて、適宜答えられるのです。聖書は、神の御座の前で務めをする者たちの手にある「香の満ちている鉢」は、「聖徒の祈」であると述べています(黙示録5:8)。これらの祈りは、受け入れられたものです。なぜなら、加えられた香があまりにも芳しかったからです。聖書は、それらが芳しかったのは「香に満ちている」からだと述べています。「謙遜な嘆願者の祈りを、主は、その人に代わって、ご自身の願いとしてささげられる。真心からの祈りはどれも天に開かれる。それはなめらかな言葉ではないかもしれないが、その中に心がこもっているとき、イエスが奉仕しておられる聖所へのぼって行き、イエスはそれをぎこちないどもる言葉がひとつもなく、ご自身の完全という香で美しくかぐわしいものとして、父にささげてくださるのである。」(各時代の希望 下巻p148,149)

もっと近くさらに近く、わたしが携えるものはなく、

わが王なるイエスにささげるものは何ひとつない
ただわたしの罪深い、今は悔いくずおれた心だけ、

どうかあなたの血による清めをわが身に叶えてください
どうかあなたの血による清めをわが身に叶えてください

もっと近くさらに近く、わたしの命の永らえる間、

わたしの錨が栄光のうちに安全に下ろされるまで
永遠を通じてつねに変わらず、わが救い主よ、

さらにあなたの近くに、わが救い主よ、さらにあなたの近くに

 

金の香壇の角には、しばしば罪祭の血が塗られました。このように、それは私たちの祈りが答えられ、私たちがキリストの義でおおわれることを可能にしたそのかたの死を象徴していました。地上の聖所の奉仕では、この金の香壇で犠牲が死ぬことが決してありませんでした。しかし、この香壇にはいつも血が塗られていました。この事実が、私たちは天の聖所で行われている私たちの大祭司のとりなしを思い起こさせるのです。「イエスは祭司の衣をまとっておられた。彼はあわれみの情をもって残りの民をごらんになった。それから、両手をあげて、深いあわれみのこもった声で、『わたしの血、父よ、わたしの血、わたしの血、わたしの血!』と叫ばれた。すると、白い大きな御座に座っておられる神から、非常に輝かしい光が出てきて、イエスのまわり一面を照らすのを、わたしは見た。それから、イエスから任務を帯びたひとりの天使が、地上でなすべき働きを持っていた四人の天使たちのところに、速やかに飛んでいって、手に持った何かを上下に振って、大声で、『神のしもべたちの額に印が押されれるまで、待て、待て、待て!』と叫ぶのを、わたしは見た。」(初代文集p99)。この光景の中で、神の天使たちが地上の四方の風を引き止めています。なぜでしょうか。それは、天におられる御父が、私たちが救われる者のうちにいることを望んでおられるからです!それを神は望んでおられるのです。イエスは、あなたに救われてほしいのです。そのかたがあなたのために祈っておられるのです!
「わたしは、わたしと一緒にいる天使に、わたしが聞いたことの意味と、四人の天使が何をしようとしているのかを尋ねた。彼は、わたしに、諸勢力を制しておられるのは、神であって、神が地上のことに関して、天使たちに任務を与えておられるのであると言った。また四人の天使たちは、四方の風を引き止める力を神から与えられていて、今にも風を吹かせようとしていたが、彼らが手をゆるめて、四方の風が吹き始めようとしたときに、あわれみ深いイエスの目が、まだ印されていない残りの民をごらんになって、彼は天の父に向かって手をあげて、ご自分が彼らのために血を流されたことを訴えられたのだと言った。そこで、もう一人の天使が、四人の天使たちのところに速やかに飛んでいく任命を受けた。そして、神のしもべたちが生ける神の印を彼らの額に押されるまで、引き止めるようにと彼らに命じたのであった。」(初代文集p99-100)
香のかおりは、聖所のみにとどまらず、周囲の近隣にまで運ばれました。これと同じように、ある人がキリストの義を着ると、彼から彼のところにきて接触する人々へ感化がおよび、人々がその天来のかおりに気づくようになります。「もし私たちがキリストに従っているなら、そのかたの功績が私たちに与えられて、御父の前に芳しい香りとして立ちのぼる。そして、そして私たちの救い主のご品性の恵みが私たちの心に植えつけられ、私たちのまわりに尊いかおりを放つのである。私たちの生活に満ちた愛、柔和、そして忍耐の精神は固い心を和らげ、支配する力がある。そして信仰の苦い敵である者たちをキリストへと勝ち取るのである。」(教会への証 5巻p174)。「キリストの精神を着せられた者は、事実上、祭司の衣でおおわれているのであり、他の人々を助けるという任務を与えられ、有利な立場に置かれているのである。キリストは彼らの手にご自分の義の香で満ちた香炉を置かれる。そして、そのかたがはっきりと彼らの嘆願にお答えになることを誓われたのである。『わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう』。」(SpTB02p28)「真理の金の香炉には、キリストの教えに提示されているように、魂に罪を悟らせ、改心させるものがある。」(福音宣伝者p309)

香壇とその目的

「あなたはまた香をたく祭壇を造らなければならない。」(出エジプト30:1)。「血は幕の前の香壇にも注がれなければならなかった。」(各時代の大争闘 下巻p132)

香壇の歴史

「ノアは主に祭壇を築いて、…燔祭を祭壇の上にささげた。主はその香ばしいかおりをかいで…」(創世記8:20-21)。「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。」(創世記22:9)。「神の特別の恵みと保護を受けた選民の、千年以上にわたる歴史が、イエスの眼前に展開された。約束の子イサクが、何の抵抗もせずに犠牲として祭壇にしばられた―――それは、神の御子の供え物の象徴であった―――モリヤの山がそこにあった。そこで信仰の父アブラハムに祝福の契約、輝かしいメシヤの約束が確認された(創世記22:9、16-18参照)。ここは、オルナンの打ち場から犠牲の炎が天にのぼり、滅びの天使のつるぎをそらせた所であった(歴代志上21章参照)が、それは罪人のための救い主の犠牲ととりなしの適切な象徴であった。エルサレムは、全地のどこよりも、神の栄誉を受けていた。『主はシオンを選び、それをご自分のすみかにしようと望』まれた(詩篇132:13)。そこは、各時代にわたって、聖預言者たちが警告の使命を発したところであった。そこで、祭司たちは、香炉を揺り動かし、そして礼拝者の祈りと共に、薫香のけむりが神の前にのぼって行った。そこで、日ごとに、ほふられた小羊の血がささげられて、神の小羊を指し示していた。そこで、主は、贖罪所の上の栄光の雲の中にご自分の臨在をあらわされた。そこに天と地を結ぶ不思議なはしごが立ち、その上を神の使いたちが上り下りしていた。そして、それは、もっとも聖なるところへの道を世界に開いたのである(創世記28:12、ヨハネ1:51参照)。もしイスラエルが国家として、天の神に忠誠を尽くしたならば、エルサレムは、神に選ばれたものとして、永遠に立ったのであった。」(各時代の大争闘 下巻p3,4)

「あなたはこれをもって香、すなわち香料を造るわざにしたがって薫香を造り、塩を加え、

純にして聖なる物としなさい。また、その幾ぶんを細かに砕き、わたしがあなたと会う会見の幕屋にある、あかしの箱の前にこれを供えなければならない。これはあなたがたに最も聖なるものである。あなたが造る香の同じ割合をもって、それを自分のために造ってはならない。すべてこれを等しいものを造って、これをかぐ者は民のうちから断たれるであろう。」(出エジプト30:35‐38)。「アロンは…これをたかなければならない。これは主の前にあなたがたが代々に絶やすことなく、ささぐべき薫香である。」(出エジプト30:8)。「主の前で薫香をその火にくべ、薫香の雲に、あかしの箱の上なる贖罪所をおおわせなければならない。こうして、彼は死を免れるであろう。」(レビ記16:13)。

祈りの時と場所

「わたしの祈を、み前にささげる薫香のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください。」(詩篇141:2)。「祭司が朝夕、香の時間に聖所に入るとき、日ごとのいけにえは外の庭の祭壇にささげられる準備ができていた。これは、幕屋に集まった礼拝者たちが非常な関心を示すときであった。彼らは、祭司の務めを通じて神の前に出るに先だって、まじめに心を探り、罪を告白しなければならなかった。彼らは、顔を聖所に向けて心を合わせ、黙祷をささげた。こうして、彼らの祈願が香の煙と共に立ちのぼった。そして、彼らは信仰によって贖罪の犠牲に予表された約束の救い主の功績にすがった。朝夕のいけにえをささげるために定められた時間は、清い時とみなされた。やがて、ユダヤ民族全体は、その時間を所定の礼拝の時間として守るようになった。そして後のユダヤ人が遠国に捕らわれの身として散らされたときも、彼らはこの決まった時間に、エルサレムの方角をむいて、イスラエルの神に祈願をささげた。この習慣はキリスト者にとって、朝夕の祈りの模範である。神は、礼拝の精神のない単なる儀式を嫌われる。しかし、神を愛し、朝に夕に頭をたれて犯した罪の許しを求め、必要な祝福を願う者たちを大きな喜びをもってごらんになる。」(人類のあけぼの 上巻p416,418)。「香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。」(ルカ1:10)。「彼は聖所の中の金の香壇の前に立っていた。香煙は、イスラエルの民の祈りと共に神のみ前にのぼっていた。」(各時代の希望 上巻p95,96)。「魂の無言の、ひたすらな祈りは、聖い香のように恵みの座にのぼり、聖所でささげられたものであるかのように神に受け入れられる。このように神を求める者にとって、キリストはいつもそばにおられる必要なときの助けである。悩みの日にも彼らは強い。」(アドベンチスト・ホームp231)

私たちの唯一の希望

「あなたがたはその上で異なる香をささげてはならない。」(出エジプト30:9)。「世の命のためにみ父がお与えになったイエスによってのみ、罪人は神に近づくことができる。イエスだけが私たちの贖い主であり、私たちの弁護人、また仲保者であられる。私たちの許しと、平安、そして義に対する唯一の希望はそのかたにあるのである。罪によって打ちのめされた魂が健全な状態に回復され得るのは、キリストの血の力によってである。キリストは、芳しい聖なる香であって、私たちの嘆願をみ父に受け入れられるものとしてくださる。そうであれば、あなたは『ただありのままで、一つの弁解すらありません。ただあなたの血をわたしに注いでください。そして、あなたの許へ来るようにとわたしに命じてください。神の小羊よ、わたしはまいります』と言わずにおれるであろうか。」(セレクテッド・メッセージp332)。「キリストが…わたしたちの唯一の希望である。そのかたは私たちのアルファでありオメガである。そのかたは、私たちの太陽であり、また私たちの避け所である。私たちの知恵であり、私たちの聖であり、私たちの義であられる。ただそのかたの御力によって、私たちの心は日ごとに神の愛のうちに保たれるのである…」(天国でp49)「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:34)。「主は、きょう香壇のそばに立って、神の助けを望む者の祈りを神のみ前にささげておられる。」(各時代の希望 中巻p397)。

香壇と私たちとの関係

「また、愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛してくださって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。」(エペソ5:2)。「しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53:5)。「当然キリストが受けられるべき取り扱いをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれが当然受けるべき取り扱いを受けられた。われわれのものではなかったキリストの義によってわれわれが義とされるように、キリストはご自分のものではなったわれわれの罪の宣告を受けられた。キリストのものである命をわれわれが受けられるように、キリストはわれわれのものである死を受けられた。」(各時代の希望 上巻p11)。「世の贖い主は、私たちのためにご自身を与えてくださった。そのかたはいったいどなたであろうか。天の王、有罪である人間の罪のために正義の祭壇の上でご自分の血を注がれた陛下であられる。私たちは、自分のキリストとの関係、またそのかたの私たちとの関係を知るべきである…。あなたの魂のために支払われた身代金

によって贖われ、あなたは出て行き、そのかたの戒めに従うことによって、あなたがどれほどそのかたを愛しているかを示すことができる。あなたはそのかたの戒めを行うことによって、実を結ばなければならない。なぜなら、あなたは生けるぶどうの木の枝だからである。あなたのうちに、そのかたの喜びがとどまり、あなたの喜びが満ちあふれるようにというのが、そのかたの祈りである。」(レビュー・アンド・ヘラルド1893.3.21)。

アブラハムの模範

「アブラハムは神を信じた…彼は『神の友』と唱えられたのである。」(ヤコブ2:23)。「神の友であったアブラハムは、私たちに価値ある模範を残した。彼の生涯は祈りと謙遜な服従の生涯であった。そして彼は世にあって光のようであった。彼は幕屋を張るとどこでも、そのそばに祭壇を築き、朝に夕に自分の家族一人ひとりの犠牲を叫び求めた…。クリスチャン家庭から同様な光が輝き出るべきである。愛が行動にあらわされるべきである。家庭でのすべての交わりにそれがあふれ出て、思いやり深い親切、やさしい無我の礼儀に表されるべきである。これらの原則が実行されている家庭がある。それは、神が礼拝され、最も真実な愛が君臨している家庭である。これらの家庭から朝夕、神のみ前に芳しい香りとして祈りが立ちのぼり、そしてそのかたの恵みと祝福が朝露のように嘆願する者の上にくだるのである。」(天国でp213)。

家族の祈り

「あなたは、生きた信仰の混じった熱心な祈りによって、自分の魂を神との緊密な交わりに入れるべきである。信仰によってささげられた一つひとつの祈りは、嘆願する者を失望するような疑いや人間の感情の上に引き上げる。祈りは暗やみの力との闘いを再開し、忍耐づよく試練に持ちこたえ、そしてキリストのよき兵士のように困難に耐えるう力を与えるのである。」(福音宣伝者p320)。「私たちは、熱心な祈りによって生まれる力と恵みを必要としている。この恵みの富は、霊的筋肉を得るために勤勉に用いられるべきである。祈りは神を私たちのところへ引き下げるのではなく、私たちをそのかたのところへ引き上げるのである。祈りは私たちにもっともっと自分たちの必要を悟らせる。したがって、私たちの神に対する義務と私たちがそのかたにより頼んでいることを悟らせるのである。それによって、私たちは自分たちの無価値さ、また私たちの正義の弱さを感じるようにさせるのである。神は熱心な祈りをご自分の豊かな祝福を授ける条件とされた。…」(天国でp213)。「いにしえの父祖たちにように、神を愛すると告白する者は自分たちが幕屋を張るところではどこででも主にささげる祭

壇を立てるべきである。…父や母はしばしば、自分たちと子供たちのために謙遜に請い求めることによって、自分たちの心を神へと引き上げるべきである。父親は、家庭の祭司として、神の祭壇に朝夕の犠牲を置きなさい。そのとき妻と子供たちは祈りと讃美をともにして一つになりなさい。イエスはそのような家庭にとどまることを喜ばれる。…天使たちは祈る聖徒たちのために芳しい香りの薫香をささげる。そうであれば、すべての家庭において、朝にも涼しい日没のころにも祈りが天へのぼるようにしよう。自分たちのために救い主の功績を神のみ前に提示しよう。朝夕ごとに天の世界はすべての祈る家庭に注意を払っている。…へりくだって、やさしさに満ちあふれた心をもって、また自分と家族の目の前にある誘惑と危険を感じて、み前にきなさい。信仰によってそれらを祭壇に結びつけ、彼らのために主の保護を嘆願しなさい。奉仕する御使いたちは、そのように神にささげられた子供たちを守るのである。…朝に夕に熱心な祈りと辛抱強い信仰によって、自分の子供たちのまわりに垣をめぐらせるのはクリスチャン両親の義務である。…すべての家庭において、決められた時間に朝夕の礼拝が行われるべきである。両親が食事の前に自分の子供たちを自分たちのまわりに集め、天父に夜の間の守りを感謝し、日中のそのかたの助けと導き、またまどろむことのない保護を求めるのは、なんと彼らにふさわしいことであろう!また、夕方になって、両親と子供たちがもう一度そのかたのみ前に集まり、過ぎ去った一日の祝福を感謝することは、なんとふさわしいことであろう!…家庭礼拝は環境に左右されるべきではない。あなたは時たま祈って、自分にしなければならない大きなその日の仕事があるときには、それをなおざりにするようであってはならない。そうすることによって、あなたの子供たちは祈りをとりたてて重要なものだとはみなさなくなるのである。祈りは神の子供たちにとって、とても大きな意味がある。そして感謝のささげ物は朝に夕に神のみ前に立ちのぼるべきである。…クリスチャンのところに訪ねるすべての者が、一日の中で祈りの時間が最も尊く、最も神聖で、最も幸せな時であることを知るようにしなさい。これあの献身の時間は、参加するすべての者の上に精錬し高める感化を及ぼす。それらは精神に感謝に満ちた平安と安息をもたらす。…あなたの子供たちは親切で他の人々に思いやりのある者となり、やさしく、温順で、そして他のなによりも、宗教的な事柄を尊重し、神のご要求の重要性を感じるように教育されなければならない。彼らは祈りの時間を尊重するように教えられるべきである。家庭礼拝に参加できるように、彼らに朝起きることが求められるべきである。」(チャイルド・ガイダンスp518‐521)。

キリストの功績

「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。」(ペテロ第一1:18,19)。「われわれ堕落した人類のただ一つの望みはキリストのうちにある。マリヤは神の小羊イエスによってのみ救いを見出すことができた。彼女自身には何のいさおしもなかった。」(各時代の希望 上巻p169)。「私たちの善行を神に受け入れられるものとするのは、キリストの功績の香りである。そして神が私たちに報いてくださる働きをするために私たちを高めてくれるのは恵みである。私たちの働きそのものには、なんの功績もない。」(驚くべき恵みp331)。「主イエスは、あなたの個人的な仲保者であられる。…一日の間に何度も何度も『キリストはわたしのために死なれた。このかたは、わたしが危険の中にいて、破滅にさらされているのをご覧になった。そして私を救うためにご自分の命を注ぎ出してくださった。このかたはご自分の足元にひれ伏してふるえている嘆願者をあわれみなくご覧になることはない。そしてこのかたはわたしを立ちあがらせずにはおられない』とくり返しなさい。そのかたは人間のために仲保者となられた。そのかたはご自分を信じる者を引き上げて、祝福の宝庫を望むがままにしてくださる。人間は自分たちの仲間にひとつとして祝福を与えることができない。彼らは、罪のしみをひとつとして取り除くことができない。なんでも手に入れられるようにしてくれるのは、キリストの功績と義だけである。しかし、これは満ちみちた豊かさのうちに私たちの勘定に託されるのである。私たちは、一瞬一瞬、神に近づいていることができる。私たちがそのかたに帰るとき、そのかたは『わたしはここにいる』と答えてくださる。キリストはご自分が私たちの仲保者であると主張される。そのかたは、ご自分があわれみ深く私たちの身代わりとなってくださったことを私たちが知るようにと望んでおられる。そのかたはご自分の功績を、ご自分の聖徒の祈りとともにささげるために金の香炉の中に入れてくださった。それは、そのかたの大切な子供たちの祈りが薫煙の雲のうちに御父の許へ上るとき、それらにキリストの功績の香りが混ぜ合わされるためである。」(天国でp79)

イエス・キリストによって罪人の祈りが神に受け入れられる

「また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。」(黙示録8:3,4)。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなしてくださるのである。」(ローマ8:34)。「イスラエルの祈りと共にのぼった香は、キリストの功績と仲保、キリストの完全な義を表わしている。これは信仰によって神の民のものとされる。そして、ただこれによってのみ、罪深い人間の礼拝が神に受け入れられる。至聖所のとばりの前には、絶えずとりなしの行われる祭壇があり、聖所の前には常供の贖いの祭壇があった。血と香によって、人間は神に近づくことができた―――これらは、偉大な仲保者キリストを指し示す象徴であった。この仲保者を通して、罪人は主に近づくことができた。また、このキリストを通してはじめて、あわれみと救いが悔い改めて信じる魂に与えられるのである。」(人類のあけぼの 上巻p416)。「イスラエルの祈りと共にのぼる香の煙は、キリストの義を代表している。ただこれだけが、罪人の祈りを神に受けいれられるものにする。」(人類のあけぼの 上巻p436)。「地上の幕屋から立ちのぼった香はすべてキリストの血の清める滴りによって湿っていなければならなかった。そのかたは、地上の堕落の害毒が入っていないご自分の功績の香炉を持って、御父の前に立たれる。そのかたは、ご自分の民の祈り、讃美、そして告白をその中に集めて、これらと一緒にご自分のしみのない義を入れられる。それから、キリストの嘆願の功績にかおり、その香は神の御前に完全にまったく受け入れられるものとして立ちのぼるのである。…」(驚くべき恵みp154)。「御父はご自分の悔いくずおれた子らの一つひとつの祈りを聞かれる。地上からの嘆願の声は私たちの仲保者の声と一つになる。そのかたは、天で嘆願されており、そのかたの御声を御父は必ず聞かれるのである。であるから、私たちの祈りが絶えず神に立ちのぼるようにしよう。それらがいかなる人間の名によることなく、ただ私たちの身代わりであり保証であられるかたの御名によってのぼるようにしよう。キリストはご自分の御名を用いるようにと私たちに賜わった。」(天国でp79)