「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世(あなた)を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世(あなた)をさばくためではなく、御子によって、この世(あなた)が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)

 

私たちが生きているこの時代は、あらゆる恐ろしい犯罪が起きている時代です。数年前、南アメリカのある国で、13歳の子供が誘拐されるという事件がありました。そしてその子供を誘拐した犯人たちはそのお父さんに、子供の身代金として90万ドルを要求し、そのお父さんはその金額を払いました。あなたは、その子供が彼にとって、それほどの価値があったとお考えになりますか?もちろん「価値があります」とあなたは答えるでしょう。

そうであれば、あなたのために誰かが身代金を払った事実を考えてみたことはありますか?

例えば、そのお父さんが自分の誘拐された息子を捜すため、必死になっていた時、ある人が来て、次のような提案をしたと仮定してみましょう。「あなたが子供を捜していると聞きましたが、なるべくはやく捜すことができるといいですね。わたしが聞いたところによれば誘拐犯は身代金として90万ドルを要求しているということですが、それは本当ですか?」「はい、そうです」とお父さんは答えます。「でも、90万ドルはあなたにとって高額すぎるのではないですか?このような解決方法がありますがいかがでしょう。わたしには息子が数人いますが、その中から一人をあなたにあげましょう。そうすれば、その子供があなたの子供のかわりになりますし、また多くのお金を節約することになるでしょう」。

あなたは、この子供のお父さんがこのような提案に関心を示すと思われますか。決して、そのようなことはないでしょう。彼は、ある子供(a boy)を捜しているのではなく、その子供(the boy)、すなわち自分の子供を捜しているのです。

神様は、この世(あなた)のために、ご自分のひとり子という尊い価を払ってくださいました。なぜ、それほどの高い身代金を払ってくださったのでしょうか。私たちは、このことを正しく理解する必要があります。この質問に対する答えを人の創造の目的から見出すことができます。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、…』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して…」「この民は、…わたしが自分のために造ったものである。」「主はおのが民を喜び…」(創世記1:26-28、イザヤ43:21、詩篇149:4)。

すべての人はそれぞれ異なり、また、違う人格をそなえています。あなたと全く同じ人を見たことがありますか?ありませんね。そうです。あなたと同じ人がこの世にいないということは、本当にいいことです。なぜなら、もしあなたがあなたと全く同じ人を一人でもみつけるとすれば、あなたの価値は50%下落することでしょう。そうです。あなたは、唯一の存在なのです。

神様が、この世にご自分のひとり子をおくり、身代金を払ってくださったのは、ある人(a man)のためではなく、この人(this man)、すなわち、あなたのため(for you)なのです。天の神様にとってあなたの存在はいてもいなくてもいいような存在ではなく、必ずいなければならない存在です。あなたは、必要とされているからこそ、創造されたのです!もし、必要でなければ、創造されることはなかったことでしょう。

人の心の中にある欲望の中で最も大きなものの一つは、自分が必要とされることを感じることです。「真価(必要性)を認められていると自覚することは、すばらしい原動力であり満足感を与える」(ミニストリー・オブ・ヒーリングp333)。私たちが、自分の愛する人の必要を満たし、また相手が自分の必要を満たしてくれることを知ることこそ、真の交わりの根本となります。このような体験を持っている夫と妻、親と子供、友と友の関係は、真の幸福を理解させてくれるに違いありません。そして、これらの人間関係を通して、神様は人々にご自分を表そうとなさいます。神様は、ご自分が私たちにとってどんな存在であられるかということだけではなく、私たちの存在がご自分にとってどのような意味を持つのかを理解するように期待しておられます。「わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」 (第一コリント13:12)。

神様は、ご自分の友になるようにとあなたを創造されました。神様にとって他の誰かがあなたの代わりになることはできません。また、あなたもその人の代わりになることはできません。神様は、ご自分の広い胸に、あなただけが満たすことのできる空間を持っていらっしゃいます。神様は、ご自分の友とするために、あなたを必要としておられます。

神様はあなたとの交際、あなたの愛情、またそれらに対するあなたの認識を熱望しておられます。こうした理由のために、神様はある人(a man)ではなく、あなた(you)を創造されたのです。私たちは、神様が一人一人を非常に価値ある存在として愛されることを覚える必要があります。「神と各々の魂との関係は、あたかも神がただそのひとりのために愛するみ子を与えたもうかのごとくに、はっきりとした完全なものであります。」(キリストへの道138)。

私たちの神様の心の中には、他の人では埋めることのできない、すなわちあなただけが満たすことのできる空間があります。神様に喜ばれる数千、否、数万人がいたとしても、それが神様にとってあなたの愛、あなたの愛情、またあなたとの交際の代わりになることはできないのです。

 

人類のための神の本来の目的

神様は本来はっきりとした目的をもって人を創造されました。私たちは、このことを創造の歴史において、人をどうでもいいようなかたちにではなく、「ご自分のかたち」(創世記1:26,27)にかたどって造られたことから知ることができます。ご自分のかたちにかたどって人を創造された神様は、ご自分の被造物である人間が、永遠にわたってご自分のかたちを保つことによって、幸せと喜びに満ちた生き方をするようにと計画されました。「この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである。」(イザヤ43:21)。「地には、自分自身および他の人々の祝福となり、創造主に栄えを帰すような人々が住むことが、神の創造の目的であった。望む者はすべて、この目的を自分のものとすることができる。」(国と指導者下109)

 

犯罪―追い出された罪人

人類の歴史において最も悲しい事件があるとすれば、それは神様のみ言葉を無視して、罪を犯した初めの人の体験に違いありません。神様は人の幸福のために、有限な人間の知力ではとうてい理解することのできない豊かな祝福(第一コリント2:9)を彼らにお与えになりました。また、彼らが永遠にわたって幸せな生涯を続けることができるようにと、彼らの従順と愛を、試されました。

「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」(創世記2:17)。誘惑者は「神の愛に頼らず、神の知恵を疑わせるのである。彼は、不信心な好奇心を刺激し、神の知恵や力の秘密を探ろうとする際限のないせんさく心をかきたてようと常に努力している。…サタンは、人間を、驚くべき知識の分野にはいるかのように信じさせて、不服従に誘惑する。しかし、これは、全く偽りである。」(人類のあけぼの上41)。「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(創世記3:6)。

「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」(創世記3:24)。「アダムとエバは、罪を犯してからエデンに住むことができなくなった。彼らは、罪のなかったときの喜びに満ちた住居にとどまっていたいと熱心に願った。彼らは、その幸福な住居に住む権利をすべて失ったことを認めたが、今後は、必ず神に服従することを誓った。しかし、彼らの性質は、罪のために堕落し、悪に抵抗する力が弱まり、サタンが容易に彼らに近づく道を開いたことを彼らは知らされた。彼らは、罪のないときに誘惑に負けた。であるから、今、罪を知った状態においては、忠実に従う力が弱まったのである。彼らは頭をうなだれ、言い表せない悲しみをいだきつつ、美しい住居に別れを告げ、罪にのろわれた地に住むために出ていった。」(人類のあけぼの上51)。

 

神の愛

神様の愛は、罪を犯した人間をそのまま死なせることができませんでした。いつくしみ深い神様は、彼らをあわれみ、寒さや危険から守るために彼らに皮の衣を着せられました。「主なる神は人とその妻のために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)。「恵み深い主は、激しい暑さと寒さから彼らを保護するために、皮衣をお与えになった。」(人類のあけぼの上51)。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。「ああ、贖罪はなんと神秘なものであろうか。神を愛さなかった世界を、神はどんなに愛されたことであろう。『人知をはるかに越えた』その愛の深さを誰が知ることができるだろうか。永遠の命を与えられた人々は、このはかり知れない愛の奥義を、永遠にわたってさぐり求めて、驚き賛美するのである。」(人類のあけぼの上54)

 

人間の贖いのために先頭に立たれたイエス・キリスト

「父がその子供をあわれむように」(詩篇103:13)、イエスは罪を犯した人類を救うために先頭に立たれた。「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。」(第一ペテロ3:18)。「天の栄光に満ちた司令官であられる神のみ子は、堕落した人類をあわれまれた。彼の心は、失われた世界のわざわいをごらんになって、限りないあわれみの情を感じられた。しかし、神の愛は、すでに、人間を贖う計画をたてていた。破られた神の律法は、罪人の生命を要求した。人間に代わって、その要求に応じられるのは、全宇宙にただひとりしかなかった。神の律法は、神ご自身と同様に神聖であるから、罪の贖いをすることができるのは、神と等しいかただけであった。罪を犯した人間を律法ののろいから贖い、再び、天と調和させることができるものは、キリストのほかになかった。キリストは、罪のとがと恥とをその身に負われるのであった。罪は天父とみ子とを離れさせるほど、清い神にとっていまわしいものであった。キリストは、堕落した人類を救うために悲惨のどん底におりてこられるのであった。」(人類のあけぼの上53,54)「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」(テトス2:14)。

 

身代金―贖いの代価

天の御父と御子は死の宣告を受けた罪人を贖うことのできる身代金を用意してくださいました。「神は彼をあわれんで言われる、『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得た』。」(ヨブ33:24)。「人の子がきたのも、…多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マタイ20:28)。「神のひとり子であるキリストは、人の贖いのためにご自分を捧げることを誓われ、カルバリーの十字架上でその代価としての身代金を払われた。」(YI1895,10,10)。「御父に喜ばれたひとり子イエスは、堕落した人類のための身代金として与えられた。」(ST1897,23)。

 

天が評価する一人の魂の価値

「キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。」(ガラテヤ1:4)。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。」(第一コリント6:20)。「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、…きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。」(第一ペテロ1:18,19)。「いったい、だれが一人の魂の価値を評価できるであろうか。もしその価値を知りたいと思うならば、ゲッセマネへ行って、血の大きなしずくのような汗を流して苦しまれたキリストと苦悩を共にするとよい。そして、十字架にかけられた救い主を見ることである。『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』というあの絶望の叫びを聞き、傷ついた頭、刺された脇、さかれた足を見なければならない。そして、キリストは、ここですべてのものを失う危険を冒しておられたことを忘れてはならない。わたしたちの贖罪のために、天そのものが危機におちいったのである。十字架の下に立って、キリストはただ一人の罪人のためでさえ、その命をおすてになったのだということを考えるとき、はじめて一人の魂の価値を正しく評価することができる。」(キリストの実物教訓176,177)。「カルバリーの十字架だけが魂の価値をあらわすことができる。だれでも、キリストが来られた天の栄光の高さと深さを理解することができない限り、魂の価値を正しく評価することはできない。…無限の父の傷のない御子、御父と一つであったお方によってのみ、人間のための身代金を払うことができたのである。」(RH1896,10,20)。「人の価値はその人のために払われた贖いの代価によってのみ評価することができる。」(9MR381)。

 

あなたの魂は尊いものか

一人の罪人のために天が払った身代金の価値を理解する人に、次の質問をしました。「あなたは、カルバリーの犠牲、すなわちあなたのための身代金の価値を知っていますか?また、それほどの犠牲を払ってでも、救う価値が、あなたにありますか?」。彼は答えます、「私にはそのような価値がないために、苦しんでいます」。私の魂には、価値があるだろうか?私たちは、このことを理解する必要があります。聖書は、私たちに人は贖われるのに十分な価値があると証しています。罪の許しを受けた魂には、大変な価値があります。なぜでしょうか?それは、イエス・キリストの尊い血のゆえです。「わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする。あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」(イザヤ43:3,4)。「罪の許しを受けたすべての魂は神の御前に全世界よりも尊いものなのである。それは、無限の代価を払って買い取られたものであって、キリストは、ご自分が救うために命をお与えになったその魂を決してお捨てになることはない。人間はその方から離れ、誘惑に巻き込まれるかもしれないが、キリストはご自分の命を身代金として払ったその者から顔をそむけることが、決しておできにならない。」(YI 1894.12.13)。「人の魂はあまりにも価値があるものであって、なにものもそれに比較することができない。彼は、『わたしは代価を払って買い取られたものである』ということを常に覚える必要がある。人の贖いのために払われた代価は、神がその人の価値をどのように評価しているかをあらわすものである。神の愛、キリストの命の価値が量りの上にのせられる、そして、いかなるものも、全世界でさえ、それより重くなることはありえないのである。」(9MR372)。

 

永遠の贖い(身代金)

とこしえの神様が払われた身代金は永遠のものであり、これによる贖いも永遠のものです。「ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(へブル9:12)。「私たちには偉大な大祭司、天に上られた神の子イエスがいらっしゃることを神に感謝しよう。…ご自分の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(GCB1899.10.1)。「真に悔い改めた者の罪が、ついに贖われて、天の記録から消されて、もはや思い出すことも心に浮かぶこともなくなるように、象徴では罪は荒野に追いやられ、会衆から永遠に切り離された。」(人類のあけぼの上423)。「主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ51:11)。「彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ、あなたは『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられる。」(イザヤ62:12) 。

 

失われた羊のたとえ

聖書は罪を犯し、神から離れた人間の状態を、おりから離れて失われた羊としてたとえています。「わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。」 (詩篇119:176)。 イエスは次のように語られました。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。そのー匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなったー匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」(ルカ15:4―7)。「羊が一匹いなくなったことを知った羊飼いは、おりの中に安全にはいっている羊の群れをながめて、少しも驚いた様子もなく、『ここに九十九匹いる。迷った一匹をさがしに行くのはたいへんだ。そのうちに帰ってくるだろう。おりの戸をあけてはいれるようにしておこう』などとは言わない。一匹が迷い出たことを知るや否や、羊飼いはそれを悲しんで心配し出す。彼は、何度も羊を数えなおす。いよいよ一匹が迷ったことが明らかになると彼は眠ることができない。九十九匹をおりに残して、道に迷った羊をさがしに出る。」(キリストの実物教訓166)。

このたとえを通してイエスは、ご自分が失われた魂をどのように考え、またお捜しになるかを教えておられます。その方の愛と熱心を、聖書は次のように表現しています、「主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。…わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、…わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼキエル34:11-12,16)。「夜は暗く、あらしははげしい。道がけわしくなるにつれて、羊飼いの不安はつのり、ますます熱心に捜し求める。彼は、道に迷っている一匹の羊を見いだすために全力をつくすのである。」(キリストの実物教訓166)。私たちの救い主のたとえの中で、「羊飼いが羊をつれず、悲しんで帰ってくる光景がここに描かれていないことは感謝である。このたとえでは、失敗ではなくて、成功、すなわち見いだした喜びが語られている。これは、神のかこいからさ迷い出た羊はたとえ一匹であっても見過ごしにされたり、救われないままにすてておかれたりすることはないという保証である。キリストは、あがないにあずかろうとして服従するすべてのものを、腐敗の穴と罪のいばらから救ってくださる。悪を行なって絶望におちいっている魂も、勇気を出さなければならない。多分、神は罪をゆるして、神の前に出ることをゆるしてくださるであろうなどと考えてはならない。すでに神は、第一歩をふみ出されたのである。あなたが神にそむいたときに、神はあなたを求めてさがしに出られたのである。羊飼いのようなやさしい心で神は、九十九匹をあとに残して、さ迷い出た一匹をさがすために荒野へ出ていかれた。彼は、傷ついて、死ぬばかりになっている魂を愛の腕にいだいて、喜び勇んで安全なおりにかかえてこられるのである。」(キリストの実物教訓167)

 

失われた放蕩息子のたとえ

また、神の愛と救いの計画をもっと明確にあらわしているもうひとつのたとえがあります。イエスは次のように語っておられます、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」(ルカ15:11-24)。

長い間、神と天の家から離れていたこの放蕩息子に変化と決心をもたらしたものは、何でしょうか。

「神の愛は、今でも神から離れて生きる人の上に注がれ、神はなんとかしてその人を、父の家へ引き返そうと働きかけてくださる。放蕩むすこは、悲惨な状態におちいって始めて、『本心に立ちかえっ』た。今まで彼を捕えていたサタンの欺瞞の力から解放された。彼は、この苦しみが自分自身の愚かさの結果であることをさとり、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰』ろうといった。放蕩むすこは、実にあわれむべき状態であったけれども、父の愛を確信して望みをいだくことができた。放蕩むすこを家へ引きつけたのは、この愛であった。そのように、神の愛の確証が、罪人を神に帰らせることになるのである。『神の慈愛があなたを悔改めに導く』のである(ローマ2:4)。神の愛のあわれみとなさけという黄金の鎖が、危険におちいったすべての魂にのべられている。『わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた』と主は言われるのである(エレミヤ31:3)。」(キリストの実物教訓182,183)。「これは神が悔改める罪人を快く受け入れてくださることの、何と尊い保証であろう。読者よ。あなたは自分勝手の道を選んできたであろうか。神からさ迷いでていたことであろうか。あなたは、罪の実を食べようとすると、それがあなたのくちびるの上で灰に変わってしまうことに気づかれたであろうか。今や、財産は使い果たし、人生の計画は挫折し、希望も消え、ただ一人、心寂しく座しているだろうか。これまでながくあなたの心に語りかけていたけれども、あなたがいっこうに耳をかそうとしなかった、まぎれもないあの声が、今明瞭に聞こえてくる。『立って去れ、これはあなたがたの休み場所ではない。これはけがれのゆえに滅びる。その滅びは悲惨な滅びだ』(ミカ2:10)。あなたの天の父の家に帰りなさい。『わたしに立ちかえれ、わたしはあなたをあがなったから』と言って、あなたを招いておられるのである(イザヤ44:22)。自分がもっと善良になり、神の前に出るにふさわしいものとなるまでは、キリストに近づくべきではないという敵のささやきに耳を傾けてはならない。それまで待っているとすれば、いつまでも主の所に来ることはできない。もし、サタンが、あなたのけがれた衣を指さすならば、『わたしに来る者を決して拒みはしない』と言うイエスの約束をくりかえしなさい(ヨハネ6:37)。イエス・キリストの血がすべての罪からきよめると敵に言いなさい。ダビデの祈りをあなたの祈りとして言いなさい。『ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう』(詩篇51:7)。立って、あなたの天の父に帰りなさい。神は、遠くからあなたを迎えてくださる。あなたが悔改めて、一歩神に向って進むならば、神は、永遠の愛の腕にあなたをいだこうと走りよられるのである。神の耳は、悔改めた魂の叫びを聞くために開かれている。人の心が、まず神を求めだしたその瞬間を、神は、ご存知である。どのようにためらいがちの祈りであっても、どのようなひそかな涙であっても、どのような弱い切なる心の願いであっても、必ず神の霊がそれを迎えに出られるのである。キリストから与えられる恵みは、祈りが口から出て、心の願いが述べられる以前に、人の心に働いている恵みに合流する。」(キリストの実物教訓185,186)