コラとダタンとアビラムは、250人のイスラエルの指導者と共にモーセとアロンに逆らって彼らに言いました。「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の全衆の上に立つのですか」(民数記16:3)。「ねたみは羨望を生じ、羨望は反逆を引き起こしたのである。彼らはモーセに、こうした大きな権力と栄誉にあずかる権利があるのかという問題を語りあった。…そして、モーセとアロンの地位はこのふたりが自分勝手に占有したものであるとみずからを欺いて、他の人々にもそのように思わせた。この指導者たちは、祭司職と行政権を手に入れて、自分たちを主の会衆の上に立てたが、彼らの家は、イスラエルの他の家族以上に栄誉を受ける資格はないのであると、不平家たちは言った。」(人類のあけぼの 上巻p479,480)。しかし、神がアロンを大祭司として選ばれたのでした。そして、このかたは、なぜ祭司職がアロンの家族の上に設立されたのかというさらなる証拠をお示しになりました。「神の指示にしたがって、各部族はつえを準備し、それに自分の部族の名を書き記した。アロンの名は、レビのつえに書かれた。つえは幕屋の中の『あかしの箱の前』に置かれた。どのつえからでも芽が出るならば、主がその部族を祭司職に選ばれたしるしとなるのであった。その翌日、 見よ、『レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた』(民数記17:8)。そのつえは、人々に見せた後で、後世への証拠として、幕屋の中に保存された。この奇跡は、祭司職に関する問題を難なく解決した。」(人類のあけぼの 上巻p487)花の咲いたアロンのつえは、彼が大祭司であることを宣言しました。「つえは、彼の手の中にある単なる道具であったが、これと同様に彼はみずからキリストの御手にある道具となるのであった。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1905.7.12)。
アロンはキリストの、特にそのかたの祭司職の「型であった」(福音宣伝者p34)。アロンが「死んだ者と、生きている者との間に立」ったように(民数記16:48)」(預言の霊1巻p303)、

「神の御子であられるキリストは、生きた者と死んだ者との間に立って、こう仰せになった。『罰はわたしの身に下りますように。わたしは、人間の代わりになります。彼にもう一度機会を与えてください』。」(信仰によって私は生きるp75)
「だれもこの栄誉ある務めを自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである 。同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、『あなたこそは、わたしの子。今日、わたしはあなたを生んだ』と言われたかたから、お受けになったのである。また、ほかの個所でこう言われている、『あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である』。」(ヘブル5:4-6)。

暗黒時代には、キリストの祭司職が、多くの者によって問題視され、魂を誤り導きました。ローマ教会は、法王があるいはマリアでさえ、仲保をし、罪を許すことができると主張しました。ですから、罪を犯した者は、自分たちの罪を祭司に告白するのでした。しかし、神はこの点をはっきりさせて、宗教改革を通して多くの人々に光をお与えになりました。そして彼らは「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただ一人であって、それは人なるキリスト・イエスである。」(テモテ第一2:5)ということを知って喜びました。「以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し」ておられるということなのです(ヘブル8:1)。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、彼は真実で正しいかたであるから、その罪を、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネ第一1:9英文訳)。この真理が明らかにされた後、「多くの者が、ローマの主張に関して目を覚まされた。彼らは、罪人のための人間や天使のとりなしが、どんなに無益であるかを知った。彼らの心に真理の光が射し込んだとき、彼らは喜びをもって叫んだ。『キリストがわたしの祭司、彼の血がわたしの犠牲、そして彼の祭壇がわたしの告白室である』と。彼らは、イエスの功績に全くより頼んで次のみ言葉を繰り返した。『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない』(ヘブル11:6)。『わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』(使徒行伝4:12)。」(各時代の大争闘上巻p76、77)

つえに関しては、イザヤが「エッサイの株から一つの芽(つえ)が出」と預言している(イザヤ11:1)。そして、これはキリストのことでした。「彼の手にあったつえは、エホバの力の象徴であった」(レビュー・アンド・ヘラルド1895.4.2)。神は、「そのお選びになったアロン」を通して(詩篇105:26)、ご自分の民を導かれた。「あなたは、その民をモーセとアロンの手によって羊の群れのように導かれた」(詩篇77:20)。この終りの時代に、私たちの大祭司であり

「大牧者」であられるイエスは、ご自分の民を導き出される(ペテロ第一5:4)。このかたは、「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」と仰せになった(ヨハネ10:27)。彼らは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である」(黙示録14:4)。「イエスの仲保による祝福にあずかる者は、贖罪の大事業をなさるイエスに、信仰によって従っていく人々である。」(各時代の大争闘下巻p147)
「『そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた』(黙示録11:19)。神の契約の箱は、聖所の第二の部屋、至聖所にある。『天にある聖所のひな型と影』であった地上の幕屋の奉仕においては、この部屋は、大いなる贖罪の日に聖所の清めのために開かれるだけであった。従って、天にある聖所が開かれて、契約の箱が見えたという告知は、1844年に天の至聖所が開かれて、キリストが贖罪の最後の働きをするためにそこに入られたことを示している。至聖所において奉仕を始められた大祭司に、信仰によって従っていった人々は、彼の契約の箱を見た。」(各時代の大争闘下巻p151)

「サタンは私たちを滅ぼす者であるが、キリストは私たちを回復してくださるかである。私たちは、常に信仰を働かせて、私たちの感情がどうであっても、神に信頼しなくてはならない。イザヤは『あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神に頼るものはだれか』と言っている(イザヤ50:10)。あなたは、詩篇記者と共に、『たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちとあなたのつえはわたしを慰めます。あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしの頭に油を注がれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう』と言うことができる(詩篇23:4,5)。『あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう』(歴代志下20:20)。主がご自分のひとり子を与えてくださったという事実を考えてみなさい。『それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」なのである(ヨハネ3:16)』」(レビュー・アンド・ヘラルド1896.5.19)

神が問題を解決なさる方法

「わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。こうして、わたしはイスラエルの人々が、あなたがたにむかって、つぶやくのをやめさせるであろう」(民数記17:5)。「このつえに起こった著しい変化はすべて一夜のうちに起こったのであった。それは、神がアロンと残りのイスラエルの子らとを明確に区別なさっていることを彼らに納得させるためであった。この神の力の奇跡の後には、もはや祭司職の権威が、問題として取りざたされることはなかった。この不思議なつえは、しばしば民に示すことができるように保存された。こうして、彼らに過去を思い起こさせ、彼らがつぶやかないように守り、二度と正当な祭司職がだれに帰属しているのかということが問題として持ち上がらないようにするであった。」(バイブル・コメンタリ1巻p1115)

神のつえ

「モーセは手に神のつえを執った。」(出エジプト記4:20)。「モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った」(民数記20:9)。「しかし、主は仰せになった。『わたしは必ずあなたと共にいる。…主は彼に言われた、『あなたの手にあるそれは何か』。彼は言った、『つえです。』また言われた、『それを地に投げなさい』。彼がそれを地に投げると、へびになったので、モーセはその前から身を避けた。主はモーセに言われた、『あなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。――そこで手を伸ばしてそれを取ると、手の中でつえとなった――。』主は彼に、ご自分が送られた使命と使命者の神聖な権威を人々に納得させるために、ご自分がこのようなしるしや奇跡をあらわすことがおできになるという事実を明らかにされたのであった。主は、最も単純なものを用いてさえ、不思議を行うことがおできになる。』(レビュー・アンド・ヘラルド1895.4.2)

アロンはキリストの象徴

「キリストを象徴したアロンと同じように私たちの救い主は、聖所の中で、神の民のすべての名を、胸の上にかけておられるのである。私たちの大祭司は、私たちに、神を信頼することを促して、私たちに言われた励ましの言葉を全部覚えておられる。彼は、ご自分の契約をお忘れにならない。」(キリストの実物教訓p127,128)「イスラエルの大祭司であるアロンに関しては、次のように書かれている。『アロンが聖所にはいる時は、さばきの胸当にあるイスラエルの子たちの名をその胸に置き、主の前に常に覚えとしなければならない。』(出エジプト記28:19)。ここに、キリストの教会に対する変らない愛が、なんと美しく表現豊かに象徴されていることであろう!アロンが型であった私たちの大祭司は、ご自分の民をご自分の胸におぼえておられる。」(福音宣伝者p34)
「神は、神の民のこの偉大な指導者たちが、キリストの代表者であることを望まれた。アロンは、胸にイスラエルの名をかけていた。彼は、神の御心を人々に伝えた。彼は、贖罪の日に、すべてのイスラエルの会衆の仲保者として至聖所に入り、『血をたずさえないで行くことはな』かった(ヘブル9:7)。キリストが、民のための贖罪のわざを終えて、彼を待っている民を祝福するために、おいでになるように、アロンは務めを終えて、会衆を祝福するために出てくるのであった。われわれの大祭司の代表としての聖職が崇高な性質のものであったことが、カデシにおけるアロンの罪を極めて大きなものとしたのである。」(人類のあけぼの 下巻p27)

エッサイの株から出たつえ

「マリヤは、シメオンの深遠な預言を心に思いめぐらした。自分の腕に抱かれている子供を眺め、ベツレヘムの羊飼いたちが語った言葉を心に思い浮かべて、マリヤは感謝の喜びと輝かしい望みに満たされた。シメオンの言葉は彼女の心にイザヤが預言した言葉を思い起させた。『エッサイの株から一つの芽(つえ)が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。…正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。』『暗やみの中に歩んでいる民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。…ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる』(イザヤ11:1‐5、9:2‐6)。」(各時代の希望 上巻p44)

つえの目的

「あなたのむちと、あなたのつえはわたしはを慰めます。」(詩篇23:4)。「どうか、あなたのつえをもってあなたの民、…あなたの嗣業の羊を牧し」(ミカ7:14)。「懲らしめのむち(つえ)は、これを遠く追い出す」(箴言22:15)。「むち(つえ)と戒めとは知恵を与える」(箴言29:15)。「イスラエルの救済の時が来た。しかし、神の御心は、人間の自尊心を傷つけるような方法でなされるべきであった。救済者は、手につえだけを持ち、卑しい羊飼いとして出て行くのであった。しかし、神はそのつえを神の力の象徴にしようとなさった。」(人類のあけぼの 上巻p285)

主はわたしの牧者

イエスは、「わたしはよい羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている」と仰せになった(ヨハネ10:14)。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(詩篇23:1)。「イエスは、よい羊飼いであられる。このかたに従う者たちは、このかたの牧場の羊である。羊飼いは、彼らを保護し、狼から守り、うせた羊を探し出して囲いに連れかえり、緑の牧場と生ける水のみぎわに伴うために、いつも自分の群れと共にいるのである。」(LHUp215)「この世の羊飼いが自分の羊を知っているように、天の羊飼いイエスは、世界中に散らばっているご自分の羊の群れを知っておられる。『あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる』。イエスは『わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』。『わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ』と言われる(エゼキエル34:31 イザヤ43:1 49:16)」(各時代の希望 中巻p276,278)「イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じて心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イエスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいる一人びとりの名前を知っておられる。イエスは、ときどき、ご自分のしもべたちに、どこそこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の一匹を探しなさいと命じてこられた。一人びとりは、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのように、よくイエスに知られている。一人びとりの悲嘆はイエスの心を動かす。助けを求める叫びはイエスの耳に達する。イエスはすべての人を御許に引き寄せるためにおいでになった。イエスは彼らに、『わたしに従ってきなさい』とお命じになる。すると、御霊が彼らの心に働いて、彼らが御許に来るように引き寄せる。多くの者は引き寄せられるのをこばむ。イエスはそれがだれであるかをご存知である。イエスはまた、ご自分の呼び声を喜んで聞いて、羊飼いであられるイエスの守りに身をゆだねようとする者をご存知である。『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る』とイエスは言われる(ヨハネ10:27)。イエスは、この地上に他にだれもいないかのように、一人びとりに気遣われる。『彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す。…羊はその声を知っているので、彼について行くのである』(ヨハネ10:3,4)。東方の羊飼いは羊を追い立てない。彼は、暴力や恐怖心に訴えないで、自分が先に行って羊たちを呼ぶ。羊たちは、彼の声を知っているので、その呼び声に従う。救い主であられる牧者イエスも、これと同じように、ご自分の羊を取り扱われる。聖書に、『あなたは、その民をモーセとアロンの手によって羊の群れのように導かれた』といわれている(詩篇77:20)。預言者を通して、イエスは、『わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしはやさしく親切にあなたを引き寄せた』と宣言しておられる(エレミヤ31:3英語訳)。イエスは、わたしに従いなさいと、だれにも強制されない。『わたしは人の綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた』

と、イエスは言われる(ホセア11:4英文訳)。弟子たちがキリストに従うのは、罰を恐れるとか、永遠の報いを望むからではない。彼らは、ベツレヘムのまぶねからカルバリーの十字架に至るまで、この地上における旅路を通じて表された救い主の比類のない愛を見る。そのキリストのお姿が彼らをひきつけ、魂を和らげ、征服するのである。イエスを仰ぎ見る者の心のうちに愛が目覚める。彼らはみ声を聞き、イエスに従うのである。羊飼いが羊たちの前に行って、自分がまず道中の危険に遭遇するように、イエスもまたご自分の民に対して同じようになさる。『自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く』(ヨハネ10:4)。天への道は、救い主のみ足跡によってきよめられている。道は険しく荒れているかもしれないが、イエスがその道を歩まれたのである。イエスの足は、ひどいいばらを踏みつけて、われわれがその道を通りやすいようにされた。イエスは、われわれが負うように召されているどの重荷もご自分で負われた。」(各時代の希望 中巻p278,279)

真の羊飼いの精神

「主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。…わたしはうせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。…あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる。」(エゼキエル34:11‐16,31英文訳)
「あなたがたがさげすむこれらの魂は、神の財産であるとイエスは言われた。彼らは、創造と贖罪とによって、神のものであって、神の前に価値あるものである。羊飼いは羊を愛して、その中の一匹でも道に迷ったのがわかるとじっとしてはいられない。神は、これとは比べものにならない無限の愛をもって世から捨てられた魂を愛されるのである。人は、神の愛を拒み、神から離れ、他の主人を選ぶこともできよう。しかし、彼らは、依然として、神の所有であり、神は彼らをご自分の者として回復しようと望まれる。このかたは「牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う」と言われる(エゼキエル34:12)。たとえの中の羊飼いは、一匹の羊、すなわち、数として最小のものをさがしに出かけた。そのように、道に迷った魂がただ一人であったとしてもキリストは、その一人のために死なれたのであった。おりから迷い出た羊は、すべての被造物の中で一番無力なものである。羊は自分で帰って来ることができないから、どうしても羊飼いがさがしに行かなければならない。神から離れ去った魂もそれと同じである。神の愛の助けがさしのべられなかったならば、彼も道に迷った羊と同様に無力で、神に帰る道を見出すことはできなかったのである」(キリストの実物教訓 p165,166)。「そして彼は仰せになった。『牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う』(エゼキエル34:12)。ああ、罪に失われた魂よ、あなたがどんなに遠くさ迷い出ていたとしても、あなたがどんな堕落とみじめさの深みに沈んでいたとしても、神はあなたをご自身のものとして、またその愛の御心に尊いものとして認めて下さる。あなたは、このかたなしに安全であることも幸せであることもできないし、このかたはあなたなしに満足することがおできにならないのである。御座を囲む天使の中におられても、このかたは、あなたを回復しようと切望しておられるのである。」(GCB1895.12.1)

異なる精神

「主の言葉がわたしに臨んだ、『人の子よ、イエスラエルの牧者たちにむかって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている』(エゼキエル34:1‐4)。「キリストは言われる。『…よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人であって、羊のことを心にかけていないからである。』」(人類のあけぼの 上巻p207)

至聖所で

「主はモーセに言われた、『アロンのつえを、あかしの箱の前に持ち帰り、そこに保存して、そむく者どものために、しるしとしなさい。こうして、彼らのわたしに対するつぶやきをやめさせ、彼らの死ぬのをまぬかれさせなければならない』(民数記17:10)。「そこには金の香炉と全面金でおおわれた契約の箱とがおかれ、その中にはマナの入っている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあ」った(ヘブル9:4英文訳)。「箱には、…芽を出したアロンのつえと、本のようにたたまれた石板があった。」(CETp91)

唯一の羊飼い

「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる」(エゼキエル34:23)。「わたしはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう」(ヨハネ10:16)。「そうすれば、大牧者が現れる時には…」(ペテロ第一5:4)。「イエスは、門番がそのために門を開き、羊を知り、ご自分の羊の名を呼んで連れ出すよい羊飼いであられる。このかたは、門からではなく他の所からよじ登ってくる盗人や強盗よりも強いかたである。民の指導者、群れの牧者だと公言していたパリサイ人たちは、この譬が自分たちに対して語られているということに気づかなかった。イエスは、ご自分を彼らと対照的に示され、彼らがこの譬によってこのかたが何を意味しておられたかを、自分の心の中で論じていたときに、こう仰せになったのであった。『わたしは[羊の]門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう』…キリストは、よい羊飼いになるための資質がある唯一のかたとして、ご自分を提示された。このかたは『大牧者』として象徴されている。」(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1893.12.4)