神の憐れみの最後の招き」
わたしたちが現代の真理を学ぶとき、今は最後のメッセージが伝えられる時だということを知っています。しかし、最後の招き、最後の警告と聞いて、わたしたちは何を考えるでしょうか。同じ言葉を聞いても、どのように考えるかによって、その結果が変わります。それはちょうど箴言 23:7(英語訳)に、「考えることがその人そのものである」と書いてある通りです。ですから、よく自己吟味してから、この学びに入ることは非常に有益です。
自分にとって最後の警告とは何だろうか—最後になったら聞こえてくる警告、すなわち新しい警告でしょうか。あるいは、これまで与えられてきた警告が、最後に繰り返されることを意味しているでしょうか。
今回の主題である最後の招きを final callと言いますが、ある場所でこの言葉をよく耳にします。そうです、空港です。最終案内(final call)と訳されていますが、つまり、最後の招きということです。もし最終案内がその時初めて聞こえる新しい案内であれば、空港は混乱することでしょう。それは、何度もこれまで繰り返されてきた案内がこれを最後に止む、すなわちその後は戸が閉まることを意味します。
最後の招き
イエスは「人の子の現われるの」も、「ちょうどノアの時のようであろう」と言われました。「すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」(マタイ 24:37-39)。彼らが気がつかなかったのは、神が彼らに警告されなかったからでしょうか。聖書は 120 年間、神はご自分の僕ノアを通して警告を繰り返しておられたことを明らかにしています。
それでは、ノアの時代の警告の内容は何だったでしょうか。それは、「箱舟に入りなさい」ということでした。人の子の現われる時代、すなわち現代は、「至聖所に入りなさい」という招きです。ノアはこのメッセージをどのように伝えたでしょうか。わたしたちはどのように伝えるでしょうか。ノアの時代の経験が繰り返されます。
「彼らは、警告が発せられる前に行なっていた通りのことをなしつづけて、神の警告をあなどっていることを示した。……そして、今、神のしもべは彼の最後の厳粛な訴えを人々にした。彼は、言葉では表現できない心の苦しさをもって、避難所があるうちに救いを求めるように訴えた」(人類のあけぼの上巻 94)。ノアは神に命じられた当初から忠実にこの警告を繰り返し、彼らはこの警告を最初から聞いてきましたが、変わりませんでした。神の警告をあなどるということは、「警告を発せられる前に行っていた通りのことをなしつづける」ことを意味します。
それでは、彼の「最後の厳粛な訴え」は何だったでしょうか。
「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ 55:6)。「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(コリント第二 6:2)。彼は心の苦しさをもって、主にお会いす
ることができるうちに、最後まで主の許へ来るよう訴え続けました。
このメッセージを伝えるようにノアを選ばれたのは神でした。現代も同じです。
選ばれた人の資格を見ていきましょう。
第一に、神は次のように言われました、 「(ノアが)わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである」、すなわち、ノアは義と認められた人、義認された人でした (創世記 7:1)。
次に第二の資格として、次のように記されています。「義の宣伝者ノア」(ペテロ第二 2:5)、彼は義の宣伝者でした。
そして第三に、彼は「義を受け継ぐ者」となったとあります(へブル 11:7)。
神に義と認められた人が、義を宣伝し、伝えた通りに義を受け継ぐ者となることがわかります。現代も同じです。
「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24:14)。
現代は、箱舟に替わって、至聖所に入るようにとのメッセージが伝えられなくてはなりません。入るべき人が入ったなら、その後に水によってではなく、火によって滅びが来ることが預言されています(ペテロ第二 3:5-7)。その後、義を受け継いだノアと共に「義の住む新しい天と新しい地」を受け継ぐのです(ペテロ第二 3:13)。
このメッセージを伝えるために必要な資格をまとめてみましょう。
最後の警告
「わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って……」(黙示録 18:1,2, 4)。
「そこで、この天使―天から下って来、栄光をもって地を照らし、力強い声でバビロンの罪を知らせる天使―によって象徴されている運動が起こる。この天使のメッセージと関連して、『わたしの民よ。彼女から離れ去れ』という呼びかけが聞かれる。これらの布告は、第三天使のメッセージとともに、地上の住民に与えられる最後の警告なのである」(各時代の大争闘下巻 372)。
「第三天使のメッセージが閉じられると、もはや地の罪深い住民のためのあわれみの嘆願はなされない。神の民はその働きを成し遂げたのである。彼らは『後の雨』と『主のみ前から』来る『慰め』を受けて、自分たちの前にある試みの時に対する準備ができた。天使たちは、天をあちらこちらへと急ぎまわっている。一人の天使が地から戻ってきて、自分の働きが終わったことを告げる。すなわち、最後の試みが世界に臨み、神の戒めに忠実であることを示した者はみな、『生ける神の印』を受けたのである。その時イエスは天の聖所でのとりなしをやめられる。
イエスはご自分の手をあげて、大声で『事はすでに成った』と仰せになる。そして、イエスが『不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ』と厳粛に宣言されると、天使の全軍はその冠をぬぐ(黙示録 22:11)。どの人の判決も、生か死かに決まった。キリストはご自分の民のために贖いをなさり、彼らの罪を消し去られた。キリストの民の数は満たされた」(各時代の大争闘下巻 385, 386)
大いなる叫び
「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、……(その家族を救うために)……(その信仰によって世の罪をさばき、)そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」(へブル 11:7)。
大いなる叫びとは何でしょうか。大いなる叫びの目的を見ながら、確認しましょう。
「洪水の起こる120 年前に、主は天使によってみこころをノアに伝え、箱舟を造ることを指示された。ノアは、箱舟を造りながら、神が洪水によって悪人を滅ぼされることを説かなければならなかった。その言葉を信じ、悔い改めと改革によってその事件に備えるものは、許され、救われるのであった。エノクは、洪水について神から示されたことを子孫に語ってきかせた。そして、生きながらえてノアの説教を聞いたメトセラとむすこたちは、箱舟の建造を手伝った」(人類のあけぼの上巻 90)。
ここで、エノクが洪水とそのための準備、すなわち悔い改めと改革の「最初のメッセージ」を伝え、ノアが同じ「最後のメッセージ」を伝えたのでした。
いつも、これがメッセージが伝わる方法です。すなわち、「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実」というように成長していきます(マルコ 4:28)。
「あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝 1:8)。
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」(ヨハネ14:12)。
「このことによって、キリストは、弟子たちのわざがキリストのみわざよりももっと崇高な性質のものになると言われたのではなく、もっと広い範囲のものになると言われたのである。主は奇跡を行なうことだけを言われたのではなく、聖霊の働きのもとに起こるすべてのことを言われたのである」(各時代の希望下巻 147,148)。このお方のなさるわざ、すなわち、御国の福音を伝える範囲が広がることを意味していました。
「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ」(イザヤ 58:1)。
そして、その大いなる叫びは、「わが民」「ヤコブの家」から始まるのでした。「女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たち」(黙示録 12:17)と、「あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、……『破れを繕う者』……、『市街を繕って住むべき所となす者』」(イザヤ 58:12) は「連れ合い」であり(イザヤ 34:16)、同じ人々を指していますが、その「子ら」はイザヤ 58:1 から始まるのです。
それでは、「わが民」と神に呼ばれる人はだれでしょうか。それは明らかに「わが民」として生まれた者ではありません。
「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、・・・だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており・・・またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ 2:1-12)。
生まれながらの「わが民」はいないのです。
「ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって」(エペソ 2:13)。
神が、「わが民」としてくださったのでした。そのわが民こそ、ノアの持っていた条件を持つ人々でした。しかし、その民がどうなったでしょうか。
「イスラエルは知らず、わが民は悟らない」(イザヤ1:3)。
「主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」(ダニエル 9:19)。
「主は言われた、『その子の名をロアンミと名づけよ。あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなたがたの神ではないからである』」(ホセア1:9)。このロアンミは、「わが民ではない」という意味です。
「わたしはわたしのために彼を地にまき、あわれまれぬ者をあわれみ、わたしの民でない者(=ロアンミ)に向かって、『あなたはわたしの民である』と言い、彼は『あなたはわたしの神である』と言う」(ホセア 2:23)。
「わが民」となったのは、実に神のあわれみによるものでした。
しかし、ユダヤ人は、それを忘れて「自分がすぐれている」から神の民になったのだと思ったため、癒すことのできないロアンミになってしまったのです。
「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(ペテロ第一 2:10)。
そうです、「わが民」とは、「神の憐れみを受けたもの」であることがわかります。
「天から力をさずけられた神のしもべたちは、聖なる献身の念に顔を照り輝かせながら、天来のメッセージを伝えに出て行った。……いたるところで、多くの群衆が『神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言っている声がきかれた」(初代文集 450,451)
自分が憐れみを受けた「わが民」が、「神の憐れみの最後のメッセージ」を伝えるのです。