研究2

第三天使の大いなる叫び」

預言 – 第三天使の大いなる叫び
「わたしは、神が、名目的再臨信徒たちと、堕落した教会の中に、心の正しい人々を持っておられるのを見た。そして、牧師や信者たちが、災害が、くだされる前に、これらの教会から呼び出されて、喜んで真理を受け入れることをわたしは見た。サタンは、この事を知っている。第三天使の大いなる叫びがあがる前に、サタンは、これらの宗教団体に、興奮を起こさせ、真理を拒んだ人々に、神が彼らと共におられると思わせるのである。サタンは、心の正しい人々を欺いて、神がなお教会のために働いておられると彼らに思わせたいと願っている。しかし、光が輝き出る。そして、心の正しい人はみな、堕落した諸教会を去り、残りの民に加わるのである」(初代文集 424)。

この中に「心の正しい」とある人々は、honest(正直)である人々のことです。つまり、サタンの偽善から守られるのは、正直な人々だということがわかります。その正直な人々についてはまた次のように書かれています。「しかし、『思慮深い者』、すなわち正直な者たちは理解するであろう」(レビュー・アンド・ ヘラルド1885年 12 月15 )。そうであれば、思慮深い者とはだれでしょうか。

「知恵のある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む」(ホセア14:9)。
「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい」(ヤコブ 3:13)。
思慮深い者は、その知恵が主にある生活に表れていることがわかります。
また、初代文集の 448-451に大いなる叫びについて記されており、そこにも次のようにあります。

「待ち望んでいる人々の上にそそがれていた光は、至る所に輝きわたった。諸教会の中で、幾らかでも光を持っている人々や、三重のメッセージを聞いてこれを拒まなかった人々は、呼び声に応じて、堕落した教会を離れた。……第三天使のメッセージはその働きをしなければならなかった。全部の者がこのメッセージによって試みられ、とうとい者たちが宗教団体から呼び出されるはずだった。
正直な人たちは、やむにやまれぬ力に動かされた。神を信じない肉親の者や友人たちは、神の力のあらわれを見て恐れ、自制し、神の霊の働きを感じた人々を妨害しようとする気持ちも、またその力もなかった」(初代文集450)。
「異国に捕らわれていた人々が、『バビロンのうちからのがれ出』よ、という言葉に従って、約束の国に回復されたように、今日、神を恐れる人々は、霊的バビロンから出よという言葉に心を留めている。やがて彼らは新たにされた地、すなわち天のカナンにおいて、神の恵みの記念として立つのである(エレミヤ書51:6)」(国と指導者下巻 316)。

この「バビロンのうちから逃れ出よ、との言葉も、3 回聞かれたのでした。与えられたメッセージを心にとめている人々、すなわち主の警告をあなどることをしなかった人々、そして思慮があることをその生活が証している正直な人々は、「バビロンのうちからのがれ出」よ、という大いなる叫びを聞いて応じるのです。

それでは、なぜこのメッセージが伝えられなければならないのでしょうか。次の聖句に注目してください。
「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る」(イザヤ 60:1-3)。

これまでの証の書の言葉にあるように、もう一人の御使のメッセージのポイントは、「光」「栄光」「輝き」です。この光は、闇と暗きを解決するために必要なものでした。これがこのメッセージの必要性です。
では、実際的に闇が光に勝てなかったというのは、どういう意味でしょうか?

「世界は神に関する誤った解釈の暗黒におおわれている。人びとは、神の品性の知識を見失い、それを誤解し、誤って理解している。この時にあたって、神からの使命、よき感化を与え、救いの力をもった使命を宣言しなければならない。神の品性を明らかにしなければならない。世界の暗黒の中に、神の栄光の光、恵みとあわれみと真理の光が輝かなければならない。
預言者イザヤは、この働きのことを次のように述べている『よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いはそのみ前にある』 ( イザヤ書 40:9,10)」(キリストの実物教訓 391, 392)。
「キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。救い主は、十字架におつきになる直前に、その大犠牲が、人間だけでなくて、他の諸世界に住む者たちに与える影響を予見して、こう言われた。『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせる
であろう』(ヨハネ12:31, 32)。人間の救いのためにキリストが死なれた行為は、人間が天にはいる道を開いたばかりでなく、神とみ子が、サタンの反逆に対して取られた処置の正当性を全宇宙の前に示すのであった。それは、神の律法の永遠性を確立し、罪の性質とその結果を明らかにするのであった」(人類のあけぼの上巻 61, 62)。

「アベルは、柔和に、しかも恐れることなく、断固として神の公平と恵みを弁護した。彼は、カインの誤りを示し、彼がまちがっていることを納得させようとした。アベルは、両親が直ちに死の刑罰を受けるはずであったのに、彼らをお助けになった神のあわれみを指摘して、神が彼らを愛されたのでなければ、汚れのないきよいみ子を、彼らが当然受けるべき刑罰を受けるためにお与えになることはないと力説した。こうしたことは、みな、カインを激怒させた」(人類のあけぼの上巻70)。
神様のご品性に対する誤解が大きければ大きいほど、大いなる叫びは大きくなるのです。それはちょうどアベルの時と同じです。
「その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた」(エゼキエル 43:2)。
東は、シカイナ、すなわち神の栄光のあるところです。初めにエデンの東の門にケルビムをおき、ご自分の栄光を表してくださったのでした。このようにその栄光で地が輝くことが預言されています。
すなわち、大いなる叫びとは=神のご品性を擁護すること=神の律法を守ることなのです。